2018/05/18

ジンセイロン ノート

 ジンセイロン ノート

 ミキ キヨシ

 シ に ついて

 チカゴロ ワタシ は シ と いう もの を そんな に おそろしく おもわなく なった。 ネンレイ の せい で あろう。 イゼン は あんな に シ の キョウフ に ついて かんがえ、 また かいた ワタシ では ある が。
 おもいがけなく くる ツウシン に クロワク の もの が しだいに おおく なる ネンレイ に ワタシ も たっした の で ある。 この スウネン の アイダ に ワタシ は イチド ならず キンシン の シ に あった。 そして ワタシ は どんな に くるしんで いる ビョウニン にも シ の シュンカン には ヘイワ が くる こと を モクゲキ した。 ハカ に もうでて も、 ムカシ の よう に インサン な キモチ に なる こと が なくなり、 ハカバ を フリードホーフ (ヘイワ の ニワ―― ただし ゴゲンガク には カンケイ が ない) と よぶ こと が カンカクテキ な ジッカン を ぴったり いいあらわして いる こと を おもう よう に なった。
 ワタシ は あまり ビョウキ を しない の で ある が、 ビョウショウ に ヨコ に なった とき には、 フシギ に ココロ の オチツキ を おぼえる の で ある。 ビョウキ の バアイ の ホカ シンジツ に ココロ の オチツキ を かんじる こと が できない と いう の は、 ゲンダイジン の ヒトツ の ケンチョ な トクチョウ、 すでに ゲンダイジン に きわめて トクチョウテキ な ビョウキ の ヒトツ で ある。

 じっさい、 コンニチ の ニンゲン の オオク は コンヴァレサンス (ビョウキ の カイフク) と して しか ケンコウ を かんじる こと が できない の では なかろう か。 これ は セイネン の ケンコウカン とは ちがって いる。 カイフクキ の ケンコウカン は ジカクテキ で あり、 フアンテイ で ある。 ケンコウ と いう の は ゲンキ な ワカモノ に おいて の よう に ジブン が ケンコウ で ある こと を ジカク しない ジョウタイ で ある と すれば、 これ は ケンコウ と いう こと も できぬ よう な もの で ある。 すでに ルネサンス には そのよう な ケンコウ が なかった。 ペトラルカ など が あじわった の は ビョウキ カイフクキ の ケンコウ で ある。 そこ から しょうずる リリシズム が ルネサンス-テキ ニンゲン を トクチョウ-づけて いる。 だから コテン を フッコウ しよう と した ルネサンス は コテンテキ で あった の では なく、 むしろ ロウマンテキ で あった の で ある。 あたらしい コテン シュギ は その ジダイ に おいて あらた に おこりつつ あった カガク の セイシン に よって のみ カノウ で あった。 ルネサンス の コテン シュギシャ は ラファエロ で なくて リオナルド ダ ヴィンチ で あった。 ケンコウ が カイフクキ の ケンコウ と して しか かんじられない ところ に ゲンダイ の コンポンテキ な ジョジョウテキ、 ロウマンテキ セイカク が ある。 イマ もし ゲンダイ が あたらしい ルネサンス で ある と した なら、 そこ から でて くる あたらしい コテン シュギ の セイシン は いかなる もの で あろう か。

 あいする モノ、 したしい モノ の しぬる こと が おおく なる に したがって、 シ の キョウフ は ハンタイ に うすらいで ゆく よう に おもわれる。 うまれて くる モノ より も しんで いった モノ に いっそう ちかく ジブン を かんじる と いう こと は、 ネンレイ の エイキョウ に よる で あろう。 30 ダイ の モノ は 40 ダイ の モノ より も 20 ダイ の モノ に、 しかし 40 ダイ に はいった モノ は 30 ダイ の モノ より も 50 ダイ の モノ に、 いっそう ちかく かんじる で あろう。 40 サイ を もって ショロウ と する こと は トウヨウ の チエ を しめして いる。 それ は たんに シンタイ の ロウスイ を イミ する の で なく、 むしろ セイシン の ロウジュク を イミ して いる。 この ネンレイ に たっした モノ に とって は シ は ナグサメ と して さえ かんじられる こと が カノウ に なる。 シ の キョウフ は つねに ビョウテキ に、 コチョウ して かたられて いる、 イマ も ワタシ の ココロ を とらえて はなさない パスカル に おいて さえ も。 シンジツ は シ の ヘイワ で あり、 この カンカク は ロウジュク した セイシン の ケンコウ の チョウヒョウ で ある。 どんな バアイ にも わらって しんで ゆく と いう シナジン は セカイジュウ で もっとも ケンコウ な コクミン で ある の では ない か と おもう。 ゲーテ が テイギ した よう に、 ロウマン シュギ と いう の は イッサイ の ビョウテキ な もの の こと で あり、 コテン シュギ と いう の は イッサイ の ケンコウ な もの の こと で ある と すれば、 シ の キョウフ は ロウマンテキ で あり、 シ の ヘイワ は コテンテキ で ある と いう こと も できる で あろう。 シ の ヘイワ が かんじられる に いたって はじめて セイ の リアリズム に たっする とも いわれる で あろう。 シナジン が セカイ の いずれ の コクミン より も リアリスト で ある と かんがえられる こと にも イミ が ある。 ワレ いまだ セイ を しらず、 いずくんぞ シ を しらん、 と いった コウシ の コトバ も、 この シナジン の セイカク を ハイケイ に して ジッカン が にじみでて くる よう で ある。 パスカル は モンテーニュ が シ に たいして ムカンシン で ある と いって ヒナン した が、 ワタシ は モンテーニュ を よんで、 カレ には ナニ か トウヨウ の チエ に ちかい もの が ある の を かんじる。 サイジョウ の シ は あらかじめ かんがえられなかった シ で ある、 と カレ は かいて いる。 シナジン と フランスジン との ルイジ は ともかく チュウモク す べき こと で ある。

 シ に ついて かんがえる こと が ムイミ で ある など と ワタシ は いおう と して いる の では ない。 シ は カンネン で ある。 そして カンネン-らしい カンネン は シ の タチバ から うまれる、 ゲンジツ あるいは セイ に タイリツ して シソウ と いわれる よう な シソウ は その タチバ から でて くる の で ある。 セイ と シ と を するどい タイリツ に おいて みた ヨーロッパ ブンカ の ジバン ――そこ には キリスト-キョウ の ふかい エイキョウ が ある―― に おいて シソウ と いう もの が つくられた。 これ に たいして トウヨウ には シソウ が ない と いわれる で あろう。 もちろん ここ にも シソウ が なかった の では ない、 ただ その シソウ と いう もの の イミ が ちがって いる。 セイヨウ シソウ に たいして トウヨウ シソウ を シュチョウ しよう と する バアイ、 シソウ とは ナニ か と いう ニンシキロンテキ モンダイ から ギンミ して かかる こと が ヒツヨウ で ある。

 ワタシ に とって シ の キョウフ は いかに して うすらいで いった か。 ジブン の したしかった モノ と シベツ する こと が しだいに おおく なった ため で ある。 もし ワタシ が カレラ と サイカイ する こと が できる ――これ は ワタシ の サイダイ の キボウ で ある―― と すれば、 それ は ワタシ の シ に おいて の ホカ フカノウ で あろう。 かりに ワタシ が 100 マン-ネン いきながらえる と して も、 ワタシ は コノヨ に おいて ふたたび カレラ と あう こと の ない の を しって いる。 その プロバビリティ は ゼロ で ある。 ワタシ は もちろん ワタシ の シ に おいて カレラ に あいうる こと を カクジツ には しって いない。 しかし その プロバビリティ が ゼロ で ある とは ダレ も ダンゲン しえない で あろう、 シシャ の クニ から かえって きた モノ は ない の で ある から。 フタツ の プロバビリティ を ヒカク する とき、 コウシャ が ゼンシャ より も おおきい と いう カノウセイ は ソンザイ する。 もし ワタシ が いずれ か に かけねば ならぬ と すれば、 ワタシ は コウシャ に かける の ホカ ない で あろう。

 かりに ダレ も しなない もの と する。 そう すれば、 オレ だけ は しんで みせる ぞ と いって シ を くわだてる モノ が きっと でて くる に ちがいない と おもう。 ニンゲン の キョエイシン は シ をも タイショウ と する こと が できる まで に おおきい。 そのよう な ニンゲン が キョエイテキ で ある こと は ナンピト も ただちに リカイ して チョウショウ する で あろう。 しかるに ヨノナカ には これ に おとらぬ キョエイ の デキゴト が おおい こと に ヒト は ヨウイ に きづかない の で ある。

 シュウチャク する ナニモノ も ない と いった キョム の ココロ では ニンゲン は なかなか しねない の では ない か。 シュウチャク する もの が ある から しにきれない と いう こと は、 シュウチャク する もの が ある から しねる と いう こと で ある。 ふかく シュウチャク する もの が ある モノ は、 シゴ ジブン の かえって ゆく べき ところ を もって いる。 それだから シ に たいする ジュンビ と いう の は、 どこまでも シュウチャク する もの を つくる と いう こと で ある。 ワタシ に しんに あいする もの が ある なら、 その こと が ワタシ の エイセイ を ヤクソク する。

 シ の モンダイ は デントウ の モンダイ に つながって いる。 シシャ が よみがえり また いきながらえる こと を しんじない で、 デントウ を しんじる こと が できる で あろう か。 よみがえり また いきながらえる の は ギョウセキ で あって、 サクシャ では ない と いわれる かも しれない。 しかしながら つくられた もの が つくる もの より も イダイ で ある と いう こと は カノウ で ある か。 ゲンイン は ケッカ に すくなくとも ひとしい か、 もしくは より おおきい と いう の が、 シゼン の ホウソク で ある と かんがえられて いる。 その ヒト の つくった もの が よみがえり また いきながらえる と すれば、 その ヒト ジシン が よみがえり また いきながらえる チカラ を それ イジョウ に もって いない と いう こと が かんがえられうる で あろう か。 もし ワレワレ が プラトン の フシ より も カレ の サクヒン の フメツ を のぞむ と すれば、 それ は ワレワレ の ココロ の キョエイ を かたる もの で なければ ならぬ。 しんじつ ワレワレ は、 ワレワレ の あいする モノ に ついて、 その モノ の エイセイ より イジョウ に その モノ の なした こと が エイゾクテキ で ある こと を ねがう で あろう か。
 ゲンイン は すくなくとも ケッカ に ひとしい と いう の は シゼン の ホウソク で あって、 レキシ に おいて は ギャク に ケッカ は つねに ゲンイン より も おおきい と いう の が ホウソク で ある と いわれる かも しれない。 もし そう で ある と すれば、 それ は レキシ の より ユウエツ な ゲンイン が ワレワレ ジシン で なくて ワレワレ を こえた もの で ある と いう こと を イミ する の で なければ ならぬ。 この ワレワレ を こえた もの は、 レキシ に おいて つくられた もの が よみがえり また いきながらえる こと を ほっして、 それ を つくる に あずかって ゲンイン で あった もの が よみがえり また いきながらえる こと は けっして ほっしない と かんがえられうる で あろう か。 もし また ワレワレ ジシン が カコ の もの を よみがえらせ、 いきながらえさせる の で ある と すれば、 かよう な チカラ を もって いる ワレワレ に とって つくられた もの より も つくる もの を よみがえらせ、 いきながらえさせる こと が いっそう ヨウイ で ない と いう こと が かんがえられうる で あろう か。
 ワタシ は イマ ニンゲン の フシ を リッショウ しよう とも、 あるいは また ヒテイ しよう とも する の では ない。 ワタシ の いおう と ほっする の は、 シシャ の セイメイ を かんがえる こと は セイジャ の セイメイ を かんがえる こと より も ロンリテキ に いっそう コンナン で ある こと は ありえない と いう こと で ある。 シ は カンネン で ある。 それだから カンネン の チカラ に たよって ジンセイ を いきよう と する モノ は シ の シソウ を つかむ こと から シュッパツ する の が ツネ で ある。 スベテ の シュウキョウ が そう で ある。

 デントウ の モンダイ は シシャ の セイメイ の モンダイ で ある。 それ は いきて いる モノ の セイチョウ の モンダイ では ない。 ツウゾク の デントウ シュギ の ゴビュウ ――この ゴビュウ は しかし シェリング や ヘーゲル の ごとき ドイツ の サイダイ の テツガクシャ で さえ も が ともに して いる―― は、 スベテ の もの は カコ から しだいに セイチョウ して きた と かんがえる こと に よって デントウ シュギ を かんがえよう と する ところ に ある。 かよう な コンポン に おいて シゼン テツガクテキ な ミカタ から は ゼッタイテキ な シンリ で あろう と する デントウ シュギ の イミ は リカイ される こと が できぬ。 デントウ の イミ が ジブン ジシン で ジブン ジシン の ナカ から セイセイ する もの の ウチ に もとめられる かぎり、 それ は ソウタイテキ な もの に すぎない。 ゼッタイテキ な デントウ シュギ は、 いける もの の セイチョウ の ロンリ で なくて しせる もの の セイメイ の ロンリ を キソ と する の で ある。 カコ は しにきった もの で あり、 それ は すでに シ で ある と いう イミ に おいて、 ゲンザイ に いきて いる もの に とって ゼッタイテキ な もの で ある。 なかば いき なかば しんで いる か の よう に フツウ に ばくぜん と ヒョウショウ されて いる カコ は、 いきて いる ゲンザイ に とって ゼッタイテキ な もの で ありえない。 カコ は ナニ より も まず しせる もの と して ゼッタイテキ な もの で ある。 この ゼッタイテキ な もの は、 ただ ゼッタイテキ な シ で ある か、 それとも ゼッタイテキ な セイメイ で ある か。 しせる もの は イマ いきて いる もの の よう に セイチョウ する こと も なければ ロウスイ する こと も ない。 そこで シシャ の セイメイ が しんぜられる ならば、 それ は ゼッタイテキ な セイメイ で なければ ならぬ。 この ゼッタイテキ な セイメイ は シンリ に ほかならない。 したがって いいかえる と、 カコ は シンリ で ある か、 それとも ム で ある か。 デントウ シュギ は まさに この ニシャ タクイツ に たいする ワレワレ の ケツイ を ヨウキュウ して いる の で ある。 それ は ワレワレ の ナカ へ シゼンテキ に ながれこみ、 シゼンテキ に ワレワレ の セイメイ の イチブブン に なって いる と かんがえられる よう な カコ を モンダイ に して いる の では ない。
 かよう な デントウ シュギ は いわゆる レキシ シュギ とは ゲンミツ に クベツ されねば ならぬ。 レキシ シュギ は シンカ シュギ と ドウヨウ キンダイ シュギ の ヒトツ で あり、 それ ジシン シンカ シュギ に なる こと が できる。 かよう な デントウ シュギ は キリスト-キョウ、 とくに その ゲンザイセツ を ハイケイ に して かんがえる と、 ヨウイ に リカイ する こと が できる わけ で ある が、 もし そのよう な ゲンザイ の カンネン が そんしない か あるいは うしなわれた と すれば どう で あろう。 すでに ペトラルカ の ごとき ルネサンス の ヒューマニスト は ゲンザイ を ゲンザイ と して で なく むしろ ビョウキ と して タイケン した。 ニーチェ は もちろん、 ジード の ごとき コンニチ の ヒューマニスト に おいて みいだされる の も、 ドウヨウ の イミ に おける ビョウキ の タイケン で ある。 ビョウキ の タイケン が ゲンザイ の タイケン に かわった ところ に キンダイ シュギ の ハジメ と オワリ が ある。 ヒューマニズム は ツミ の カンネン で なくて ビョウキ の カンネン から シュッパツ する の で あろう か。 ツミ と ビョウキ との サイ は どこ に ある の で あろう か。 ツミ は シ で あり、 ビョウキ は なお セイ で ある の か。 シ は カンネン で あり、 ビョウキ は ケイケン で ある の か。 ともかく ビョウキ の カンネン から デントウ シュギ を みちびきだす こと は フカノウ で ある。 それでは ツミ の カンネン の そんしない と いわれる トウヨウ シソウ に おいて、 デントウ シュギ と いう もの は、 そして また ヒューマニズム と いう もの は、 いかなる もの で あろう か。 モンダイ は シ の ミカタ に かかわって いる。

 コウフク に ついて

 コンニチ の ニンゲン は コウフク に ついて ほとんど かんがえない よう で ある。 こころみに キンネン あらわれた リンリガクショ、 とりわけ ワガクニ で かかれた リンリ の ホン を ひらいて みたまえ。 ただ の 1 カショ も コウフク の モンダイ を とりあつかって いない ショモツ を ハッケン する こと は ショクン に とって はなはだ ヨウイ で あろう。 かよう な ショモツ を リンリ の ホン と しんじて よい の か どう か、 その チョシャ を リンリ ガクシャ と みとめる べき で ある の か どう か、 ワタシ には わからない。 ウタガイ なく たしか な こと は、 カコ の スベテ の ジダイ に おいて つねに コウフク が リンリ の チュウシン モンダイ で あった と いう こと で ある。 ギリシア の コテンテキ な リンリガク が そう で あった し、 ストア の ゲンシュク シュギ の ごとき も コウフク の ため に セツヨク を といた の で あり、 キリスト-キョウ に おいて も、 アウグスティヌス や パスカル など は、 ニンゲン は どこまでも コウフク を もとめる と いう ジジツ を コンポン と して カレラ の シュウキョウロン や リンリガク を シュッタツ した の で ある。 コウフク に ついて かんがえない こと は コンニチ の ニンゲン の トクチョウ で ある。 ゲンダイ に おける リンリ の コンラン は シュジュ に ろんじられて いる が、 リンリ の ホン から コウフクロン が ソウシツ した と いう こと は この コンラン を ダイヒョウ する ジジツ で ある。 あらた に コウフクロン が セッテイ される まで は リンリ の コンラン は すくわれない で あろう。
 コウフク に ついて かんがえる こと は すでに ヒトツ の、 おそらく サイダイ の、 フコウ の キザシ で ある と いわれる かも しれない。 ケンゼン な イ を もって いる モノ が イ の ソンザイ を かんじない よう に、 コウフク で ある モノ は コウフク に ついて かんがえない と いわれる で あろう。 しかしながら コンニチ の ニンゲン は はたして コウフク で ある ため に コウフク に ついて かんがえない の で ある か。 むしろ ワレワレ の ジダイ は ヒトビト に コウフク に ついて かんがえる キリョク を さえ うしなわせて しまった ほど フコウ なの では あるまい か。 コウフク を かたる こと が すでに ナニ か フドウトク な こと で ある か の よう に かんじられる ほど イマ の ヨノナカ は フコウ に みちて いる の では あるまい か。 しかしながら コウフク を しらない モノ に フコウ の ナン で ある か が リカイ される で あろう か。 コンニチ の ニンゲン も あらゆる バアイ に いわば ホンノウテキ に コウフク を もとめて いる に ソウイ ない。 しかも コンニチ の ニンゲン は ジイシキ の カジョウ に くるしむ とも いわれて いる。 その きわめて ジイシキテキ な ニンゲン が コウフク に ついて は ほとんど かんがえない の で ある。 これ が ゲンダイ の セイシンテキ ジョウキョウ の セイカク で あり、 これ が ゲンダイジン の フコウ を トクチョウ-づけて いる。

 リョウシン の ギム と コウフク の ヨウキュウ と を タイリツテキ に かんがえる の は キンダイテキ リゴリズム で ある。 これ に はんして ワタシ は かんがえる。 コンニチ の リョウシン とは コウフク の ヨウキュウ で ある、 と。 シャカイ、 カイキュウ、 ジンルイ、 -トウトウ、 あらゆる もの の ナ に おいて ニンゲンテキ な コウフク の ヨウキュウ が マッサツ されよう と して いる バアイ、 コウフク の ヨウキュウ ほど リョウシンテキ な もの が ある で あろう か。 コウフク の ヨウキュウ と むすびつかない かぎり、 コンニチ リンリ の ガイネン と して たえず リュウヨウ されて いる シャカイ、 カイキュウ、 ジンルイ、 -トウトウ も、 なんら リンリテキ な イミ を ゆうしえない で あろう。 あるいは リンリ の モンダイ が コウフク の モンダイ から ブンリ される と ともに、 あらゆる ニンイ の もの を リンリ の ガイネン と して リュウヨウ する こと が カノウ に なった の で ある。 コウフク の ヨウキュウ が コンニチ の リョウシン と して フッケン されねば ならぬ。 ヒト が ヒューマニスト で ある か どう か は、 しゅとして この テン に かかって いる。
 コウフク の モンダイ が リンリ の モンダイ から マッサツ される に したがって オオク の リンリテキ クウゴ を しょうじた。 たとえば、 リンリテキ と いう こと と シュタイテキ と いう こと と が イッショ に かたられる の は ただしい。 けれども シュタイテキ と いう こと も コンニチ では コウフク の ヨウキュウ から チュウショウ される こと に よって ヒトツ の リンリテキ クウゴ と なって いる。 そこで また ゲンダイ の リンリガク から マッサツ されよう と して いる の は ドウキロン で あり、 シュタイテキ と いう ゴ の リュウコウ と ともに リンリガク は かえって キャッカンロン に おちいる に いたった。 コウフク の ヨウキュウ が スベテ の コウイ の ドウキ で ある と いう こと は、 イゼン の リンリガク の キョウツウ の シュッパツテン で あった。 ゲンダイ の テツガク は かよう な カンガエカタ を シンリ シュギ と なづけて ハイセキ する こと を まなんだ の で ある が、 その とき タホウ に おいて ゲンダイジン の シンリ の ムチツジョ が はじまった の で ある。 この ムチツジョ は、 ジブン の コウイ の ドウキ が コウフク の ヨウキュウ で ある の か どう か が わからなく なった とき に はじまった。 そして それ と ドウジ に シンリ の リアリティ が うたがわしく なり、 ニンゲン カイシャク に ついて あらゆる シュルイ の カンネン シュギ が しょうじた。 シンリ の リアリティ は シンリ の ウチ に チツジョ が ソンザイ する バアイ に アカシ される。 コウフク の ヨウキュウ は その チツジョ の キテイ で あり、 シンリ の リアリティ は コウフク の ヨウキュウ の ジジツ の ウチ に あたえられて いる。 コウフクロン を マッサツ した リンリ は、 イッケン いかに ロンリテキ で ある に して も、 その ナイジツ に おいて キョム シュギ に ほかならぬ。

 イゼン の シンリガク は シンリ ヒヒョウ の ガク で あった。 それ は ゲイジュツ ヒヒョウ など と いう ヒヒョウ の イミ に おける シンリ ヒヒョウ を モクテキ と して いた。 ニンゲン セイシン の モロモロ の カツドウ、 モロモロ の ソクメン を ヒョウカ する こと に よって これ を チツジョ-づける と いう の が シンリガク の シゴト で あった。 この シゴト に おいて テツガクシャ は ブンガクシャ と おなじ で あった。 かよう な カチ ヒヒョウ と して の シンリガク が シゼン カガクテキ ホウホウ に もとづく シンリガク に よって ハカイ されて しまう キケン の しょうじた とき、 これ に ハンコウ して あらわれた の が ニンゲンガク と いう もの で ある。 しかるに この ニンゲンガク も コンニチ では サイショ の ドウキ から イツダツ して ニンゲン シンリ の ヒヒョウ と いう コユウ の イミ を ホウキ し、 あらゆる ニンイ の もの が ニンゲンガク と しょうせられる よう に なって いる。 テツガク に おける ゲイジュツカ-テキ な もの が うしなわれて しまい、 シンリ ヒヒョウ の シゴト は ただ ブンガクシャ に のみ ゆだねられる よう に なった。 そこ に シンリガク を もたない こと が イッパンテキ に なった コンニチ の テツガク の チュウショウセイ が ある。 その サイ みのがして ならぬ こと は、 この ゲンダイ テツガク の ヒトツ の トクチョウ が コウフクロン の マッサツ と カンレン して いる と いう こと で ある。

 コウフク を たんに カンセイテキ な もの と かんがえる こと は まちがって いる。 むしろ シュチ シュギ が リンリジョウ の コウフクセツ と むすびつく の が ツネ で ある こと を シソウ の レキシ は しめして いる。 コウフク の モンダイ は シュチ シュギ に とって サイダイ の シチュウ で ある と さえ いう こと が できる。 もし コウフクロン を マッサツ して かかる なら、 シュチ シュギ を ヤクサツ する こと は ヨウイ で ある。 じっさい、 コンニチ の ハン-シュチ シュギ の シソウ の ほとんど スベテ は このよう に コウフクロン を マッサツ する こと から シュッパツ して いる の で ある。 そこ に コンニチ の ハン-シュチ シュギ の ヒミツ が ある。

 コウフク は トク に はんする もの で なく、 むしろ コウフク ソノモノ が トク で ある。 もちろん、 タニン の コウフク に ついて かんがえねば ならぬ と いう の は ただしい。 しかし ワレワレ は ワレワレ の あいする モノ に たいして、 ジブン が コウフク で ある こと より なお イジョウ の よい こと を なしうる で あろう か。

 あいする もの の ため に しんだ ゆえ に カレラ は コウフク で あった の で なく、 ハンタイ に、 カレラ は コウフク で あった ゆえ に あいする もの の ため に しぬる チカラ を ゆうした の で ある。 ニチジョウ の ちいさな シゴト から、 よろこんで ジブン を ギセイ に する と いう に いたる まで、 あらゆる コトガラ に おいて、 コウフク は チカラ で ある。 トク が チカラ で ある と いう こと は コウフク の ナニ より も よく しめす ところ で ある。

 シ は カンネン で ある、 と ワタシ は かいた。 これ に たいして セイ は ナン で ある か。 セイ とは ソウゾウ で ある、 と ワタシ は いおう と おもう。 いかに セイ の ゲンジツセイ を シュチョウ する モノ も、 ひるがえって これ を シ と ヒカク する とき、 セイ が いかに ソウゾウテキ な もの で ある か を リカイ する で あろう。 ソウゾウテキ な もの は ヒ-ゲンジツテキ で ある の で なく、 かえって ゲンジツテキ な もの は ソウゾウテキ な もの で ある の で ある。 ゲンジツ は ワタシ の いう コウソウリョク (ソウゾウリョク) の ロンリ に したがって いる。 ジンセイ は ユメ で ある と いう こと を ダレ が かんじなかった で あろう か。 それ は たんなる ヒユ では ない、 それ は ジッカン で ある。 この ジッカン の コンキョ が あきらか に されねば ならぬ、 いいかえる と、 ユメ あるいは クウソウテキ な もの の ゲンジツセイ が しめされなければ ならない。 その ショウメイ を あたえる もの は コウソウリョク の ケイセイ サヨウ で ある。 セイ が ソウゾウテキ な もの で ある と いう イミ に おいて コウフク も ソウゾウテキ な もの で ある と いう こと が できる。

 ニンゲン を イッパンテキ な もの と して リカイ する には、 シ から リカイ する こと が ヒツヨウ で ある。 シ は もとより まったく グタイテキ な もの で ある。 しかし この まったく グタイテキ な シ は それ にも かかわらず イッパンテキ な もの で ある。 「ヒト は ただ ヒトリ しぬる で あろう」、 と パスカル は いった。 カクジン が ミナ ベツベツ に しんで ゆく、 けれども その シ は それ にも かかわらず シ と して イッパンテキ な もの で ある。 ジンソ アダム と いう シソウ は ここ に コンキョ を もって いる。 シ の ゆうする この フシギ な イッパンセイ こそ ワレワレ を コンワク させる もの で ある。 シ は その イッパンセイ に おいて ニンゲン を ブンリ する。 ヒトビト は ただ ヒトリ しぬる ゆえ に コドク で ある の では なく、 シ が イッパンテキ な もの で ある ゆえ に ヒトビト は シ に あって コドク で ある の で ある。 ワタシ が いきのこり、 ナンジ が ただ ヒトリ しんで ゆく と して も、 もし ナンジ の シ が イッパンテキ な もの で ない ならば、 ワタシ は ナンジ の シ に おいて コドク を かんじない で あろう。
 しかるに セイ は つねに トクシュテキ な もの で ある。 イッパンテキ な シ が ブンリ する に はんして、 トクシュテキ な セイ は ケツゴウ する。 シ は イッパンテキ な もの と いう イミ に おいて カンネン と かんがえられる に たいして、 セイ は トクシュテキ な もの と いう イミ に おいて ソウゾウ と かんがえられる。 ワレワレ の ソウゾウリョク は トクシュテキ な もの に おいて の ホカ たのしまない。 (ゲイジュツカ は ホンセイジョウ タシンロンシャ で ある)。 もとより ニンゲン は たんに トクシュテキ な もの で なく ドウジ に イッパンテキ な もの で ある。 しかし セイ の ゆうする イッパンセイ は シ の ゆうする イッパンセイ とは ことなって いる。 シ の イッパンセイ が カンネン の ゆうする イッパンセイ に るいする と すれば、 セイ の イッパンセイ は ソウゾウリョク に かかわる ところ の タイプ の イッパンセイ と ドウヨウ の もの で ある。 コセイ とは ベツ に タイプ が ある の で なく、 タイプ は コセイ で ある。 シ ソノモノ には タイプ が ない。 シ の タイプ を かんがえる の は シ を なお セイ から かんがえる から で ある。 コセイ は タヨウ の トウイツ で ある が、 アイムジュン する タヨウ な もの を トウイツ して ヒトツ の カタチ に ケイセイ する もの が コウソウリョク に ほかならない。 カンセイ から も チセイ から も かんがえられない コセイ は コウソウリョク から かんがえられねば ならぬ。 セイ と おなじく コウフク が ソウゾウ で ある と いう こと は、 コセイ が コウフク で ある こと を イミ して いる。

 シゼン は その ハッテン の ダンカイ を のぼる に したがって ますます オオク の コセイ に ブンカ する。 その こと は ヤミ から ヒカリ を もとめて ソウゾウ する シゼン の コンゲンテキ な ヨッキュウ が いかなる もの で ある か を かたって いる。

 ジンカク は チ の コ ら の サイコウ の コウフク で ある と いう ゲーテ の コトバ ほど、 コウフク に ついて の カンゼン な テイギ は ない。 コウフク に なる と いう こと は ジンカク に なる と いう こと で ある。
 コウフク は ニクタイテキ カイラク に ある か セイシンテキ カイラク に ある か、 カツドウ に ある か ソンザイ に ある か と いう が ごとき トイ は、 ワレワレ を ただ フンキュウ に ひきいれる だけ で ある。 かよう な トイ に たいして は、 その いずれ でも ある と こたえる の ホカ ない で あろう。 なぜなら、 ジンカク は ニクタイ で ある と ともに セイシン で あり、 カツドウ で ある と ともに ソンザイ で ある から。 そして かかる こと は ジンカク と いう もの が ケイセイ される もの で ある こと を イミ して いる。

 コンニチ ヒト が コウフク に ついて かんがえない の は、 ジンカク の ブンカイ の ジダイ と よばれる ゲンダイ の トクチョウ に ソウオウ して いる。 そして この ジジツ は ギャク に コウフク が ジンカク で ある と いう メイダイ を いわば セカイシ-テキ キボ に おいて ショウメイ する もの で ある。

 コウフク は ジンカク で ある。 ヒト が ガイトウ を ぬぎすてる よう に いつでも キラク に ホカ の コウフク は ぬぎすてる こと の できる モノ が もっとも コウフク な ヒト で ある。 しかし シン の コウフク は、 カレ は これ を すてさらない し、 すてさる こと も できない。 カレ の コウフク は カレ の セイメイ と おなじ よう に カレ ジシン と ヒトツ の もの で ある。 この コウフク を もって カレ は あらゆる コンナン と たたかう の で ある。 コウフク を ブキ と して たたかう モノ のみ が たおれて も なお コウフク で ある。

 キゲン が よい こと、 テイネイ な こと、 シンセツ な こと、 カンダイ な こと、 -トウトウ、 コウフク は つねに ソト に あらわれる。 うたわぬ シジン と いう もの は シン の シジン で ない ごとく、 たんに ナイメンテキ で ある と いう よう な コウフク は シン の コウフク では ない で あろう。 コウフク は ヒョウゲンテキ な もの で ある。 トリ の うたう が ごとく おのずから ソト に あらわれて タ の ヒト を コウフク に する もの が シン の コウフク で ある。

 カイギ に ついて

 カイギ の イミ を セイカク に ハンダン する こと は ヨウイ で ない よう に みえる。 ある バアイ には カイギ は シンピカ され、 それ から ヒトツ の シュウキョウ が しょうずる まで に いたって いる。 あらゆる シンピ を はらいのける こと が カイギ の シゴト で ある で あろう に。 ハンタイ に タ の バアイ には いかなる カイギ も カイギ で ある と いう リユウ で ヨウシャ なく フドウトク と して へんせられて いる。 カイギ は チセイ の ヒトツ の トク で ありうる で あろう に。 マエ の バアイ、 カイギ ソノモノ が ヒトツ の ドクダン と なる。 アト の バアイ、 カイギ を アタマ から たたきつけよう と する の も やはり ドクダン で ある。
 いずれ に して も たしか な こと は、 カイギ が とくに ニンゲンテキ な もの で ある と いう こと で ある。 カミ には カイギ は ない で あろう、 また ドウブツ にも カイギ は ない で あろう。 カイギ は テンシ でも なく ケモノ でも ない ニンゲン に コユウ な もの で ある。 ニンゲン は チセイ に よって ドウブツ に まさる と いわれる ならば、 それ は カイギ に よって トクショク-づけられる こと が できる で あろう。 じっさい、 タショウ とも カイギテキ で ない よう な チセイジン が ある で あろう か。 そして ドクダンカ は ある バアイ には テンシ の ごとく みえ、 ある バアイ には ケモノ の ごとく みえない で あろう か。

 ニンゲンテキ な チセイ の ジユウ は さしあたり カイギ の ウチ に ある。 ジユウジン と いわれる モノ で カイギテキ で なかった よう な ヒト を ワタシ は しらない。 あの honnête homme (マニンゲン) と いわれた モノ には ミナ カイギテキ な ところ が あった し、 そして それ は ジユウジン を イミ した の で ある。 しかるに テツガクシャ が ジユウ の ガイネン を どのよう に キテイ する に して も、 ゲンジツ の ニンゲンテキ な ジユウ は セツド の ウチ に ある。 コテンテキ な ヒューマニズム に おいて もっとも ジュウヨウ な トク で あった この セツド と いう もの は ゲンダイ の シソウ に おいて は まれ に なって いる。 カイギ が チセイ の トク で ある ため には セツド が なければ ならぬ。 イッパン に シソウカ の セツド と いう もの が モンダイ で ある。 モンテーニュ の サイダイ の チエ は カイギ に おいて セツド が ある と いう こと で あった。 また じつに、 セツド を しらない よう な カイギ は シン の カイギ では ない で あろう。 ド を こえた カイギ は ジュンスイ に カイギ に とどまって いる の で なく、 ヒトツ の テツガクセツ と して の カイギロン に なって いる か、 それとも カイギ の シンピカ、 シュウキョウカ に おちいって いる の で ある。 その いずれ も もはや カイギ では なく、 ヒトツ の ドクダン で ある。

 カイギ は チセイ の トク と して ニンゲン セイシン を ジョウカ する。 ちょうど なく こと が セイリテキ に ワレワレ の カンジョウ を ジョウカ する よう に。 しかし カイギ ソノモノ は なく こと に るいする より も わらう こと に るいする で あろう。 ワライ は ドウブツ には ない ニンゲンテキ な ヒョウジョウ で ある と すれば、 カイギ と ワライ との アイダ に ルイジ が ソンザイ する の は シゼン で ある。 ワライ も ワレワレ の カンジョウ を ジョウカ する こと が できる。 カイギカ の ヒョウジョウ は ジュウメン ばかり では ない。 チセイ に コユウ な カイカツサ を ゆうしない カイギ は シン の カイギ では ない で あろう。
 シン の カイギカ は ソフィスト では なくて ソクラテス で あった。 ソクラテス は カイギ が ムゲン の タンキュウ に ほかならぬ こと を しめした。 その カレ は また シン の ヒゲキカ は シン の キゲキカ で ある こと を しめした の で ある。

 ジュウライ の テツガク の ウチ エイゾクテキ な セイメイ を ゆうする もの で なんらか カイギテキ な ところ を ふくまない もの が ある で あろう か。 ただ ヒトツ の イダイ な レイガイ は ヘーゲル で ある。 その ヘーゲル の テツガク は、 レキシ の しめす よう に、 イチジ は ネッキョウテキ な シンポウシャ を つくる が、 やがて まったく かえりみられなく なる と いう トクシツ を そなえて いる。 この ジジツ の ウチ に おそらく ヘーゲル の テツガク の ヒミツ が ある。

 ロンリ ガクシャ は ロンリ の コンテイ に チョッカン が ある と いう。 ヒト は ムゲン に ショウメイ して ゆく こと が できぬ、 あらゆる ロンショウ は もはや それ ジシン は ロンショウ する こと の できぬ もの、 チョッカンテキ に カクジツ な もの を ゼンテイ し、 それ から シュッタツ して スイロン する と いわれる。 しかし ロンリ の コンテイ に ある チョッカンテキ な もの が つねに カクジツ な もの で ある と いう ショウメイ は ソンザイ する で あろう か。 もし それ が つねに カクジツ な もの で ある と すれば、 なにゆえに ヒト は その チョッカン に とどまらない で、 なお ロンリ を ヒツヨウ と する で あろう か。 カクジツ な もの の チョッカン が ある ばかり で なく、 フカクジツ な もの の チョッカン が ある よう に おもわれる。 チョッカン を つねに うたがう の は おろか な こと で あり、 チョッカン を つねに しんじる の も いたらぬ こと で ある。 そして フツウ に いわれる の とは ギャク に、 カンセイテキ な チョッカン が それ ジシン の シュルイ に おいて カクジツ な もの の チョッカン で ある の に たいして、 チセイテキ な チョッカン の トクチョウ は むしろ フカクジツ な もの の チョッカン に そんする よう に さえ おもわれる。 カクジツ な もの の チョッカン は ――カンセイテキ な もの で ある に せよ、 チョウ-カンセイテキ な もの で ある に せよ、―― それ ジタイ に おいて は ロンリ の ショウメイ を ようしない の に はんして、 フカクジツ な もの の チョッカン ――カイギテキ チョッカン もしくは チョッカンテキ カイギ―― こそ ロンリ を ヒツヨウ と する もの、 ロンリ を うごかす もの で ある。 ロンリ に よって カイギ が でて くる の で なく、 カイギ から ロンリ が もとめられて くる の で ある。 かよう に ロンリ を もとめる ところ に チセイ の キョウジ が あり、 ジコ ソンチョウ が ある。 いわゆる ロンリカ は コウシキ シュギシャ で あり、 ドクダンカ の ヒトツ の シュルイ に すぎない。
 フカクジツ な もの が カクジツ な もの の キソ で ある。 テツガクシャ は ジコ の ウチ に カイギ が いきて いる かぎり テツガク し、 モノ を かく。 もとより カレ は フカクジツ な もの の ため に はたらく の では ない。 ―― 「ヒト は フカクジツ な もの の ため に はたらく」、 と パスカル は かいて いる。 けれども セイカク に いう と、 ヒト は フカクジツ な もの の ため に はたらく の で なく、 むしろ フカクジツ な もの から はたらく の で ある。 ジンセイ が ただ はたらく こと で なくて つくる こと で あり、 たんなる ソンザイ で なくて ケイセイ サヨウ で あり、 また そう で なければ ならぬ ユエン で ある。 そして ヒト は フカクジツ な もの から はたらく と いう ところ から、 あらゆる ケイセイ サヨウ の コンテイ に カケ が ある と いわれうる。

 ドクダン に たいする カイギ の チカラ と ムリョク とは、 ジョウネン に たいする チセイ の チカラ と ムリョク と で ある。 ドクダン は、 それ が ヒトツ の カケ で ある バアイ に のみ、 チセイテキ で ありうる。 ジョウネン は つねに ただ たんに コウテイテキ で あり、 ドクダン の オオク は ジョウネン に もとづいて いる。

 オオク の カイギカ は ガイケン に あらわれる ほど カイギカ では ない。 また オオク の ドクダンカ は ガイケン に あらわれる ほど ドクダンカ では ない。

 ヒト は ときとして タ に たいする キョエイ から カイギテキ に なる が、 さらに より おおく タ に たいする キョエイ の ため に ドクダンテキ に なる。 そして それ は タメン、 ニンゲン に おいて セイジテキ ヨクボウ すなわち タ に たいする シハイ の ヨクボウ が フヘンテキ で ある こと を しめす と ともに、 カレ に おいて また キョウイクテキ ヨクボウ が フヘンテキ で ある こと を しめして いる。 セイジ に とって は ドクダン も ヒツヨウ で あろう。 けれども キョウイク に とって ドウヨウ に ドクダン が ヒツヨウ で ある か どう か は ギモン で ある。 ただ、 セイジテキ ヨクボウ を ふくまない よう な キョウイクテキ ヨクボウ が まれ で ある こと は たしか で ある。

 いかなる ヒト も タ を しんじさせる こと が できる ほど オノレ を しんじさせる こと が できない。 タニン を シンコウ に みちびく シュウキョウカ は かならずしも ゼッタイ に カイギ の ない ニンゲン では ない。 カレ が タ の ヒト に シントウ する チカラ は むしろ その イッパン を カレ の ウチ に なお いきて いる カイギ に おうて いる。 すくなくとも、 そう で ない よう な シュウキョウカ は シソウカ とは いわれない で あろう。

 ジブン では うたがいながら ハッピョウ した イケン が タニン に よって ジブン の うたがって いない もの の よう に しんじられる バアイ が ある。 そのよう な バアイ には ついに ジブン でも その イケン を しんじる よう に なる もの で ある。 シンコウ の コンゲン は タシャ に ある。 それ は シュウキョウ の バアイ でも そう で あって、 シュウキョウカ は ジブン の シンコウ の コンゲン は カミ に ある と いって いる。

 カイギ と いう もの は サンブン で しか あらわす こと の できない もの で ある。 その こと は カイギ の セイシツ を しめす と ともに、 ギャク に サンブン の コユウ の オモシロサ、 また その ムズカシサ が どこ に ある か を しめして いる。

 シン の カイギカ は ロンリ を ツイキュウ する。 しかるに ドクダンカ は まったく ロンショウ しない か、 ただ ケイシキテキ に ロンショウ する のみ で ある。 ドクダンカ は はなはだ しばしば ハイボク シュギシャ、 チセイ の ハイボク シュギシャ で ある。 カレ は ガイケン に あらわれる ほど けっして つよく は ない、 カレ は タニン に たいして も ジコ に たいして も つよがらねば ならぬ ヒツヨウ を かんじる ほど よわい の で ある。
 ヒト は ハイボク シュギ から ドクダンカ に なる。 また ヒト は ゼツボウ から ドクダンカ に なる。 ゼツボウ と カイギ とは おなじ で ない。 ただ チセイ の くわわる バアイ に のみ ゼツボウ は カイギ に かわりうる の で ある が、 これ は ソウゾウ される よう に ヨウイ な こと では ない。

 ジュンスイ に カイギ に とどまる こと は コンナン で ある。 ヒト が カイギ しはじめる や いなや、 ジョウネン が カレ を とらえる ため に まって いる。 だから シン の カイギ は セイシュン の もの で なく、 むしろ すでに セイシン の セイジュク を しめす もの で ある。 セイシュン の カイギ は たえず カンショウ に ともなわれ、 カンショウ に かわって ゆく。

 カイギ には セツド が なければ ならず、 セツド の ある カイギ のみ が しんに カイギ の ナ に あたいする と いう こと は、 カイギ が ホウホウ で ある こと を イミ して いる。 カイギ が ホウホウ で ある こと は デカルト に よって カクニン された シンリ で ある。 デカルト の カイギ は イッケン かんがえられる よう に キョクタン な もの で なく、 つねに チュウイ-ぶかく セツド を まもって いる。 この テン に おいて も カレ は ヒューマニスト で あった。 カレ が ホウホウ ジョセツ ダイ 3 ブ に おける ドウトクロン を ザンテイテキ な あるいは イチジシノギ の もの と しょうした こと は きわめて トクチョウテキ で ある。
 ホウホウ に ついて の ジュクタツ は キョウヨウ の ウチ もっとも ジュウヨウ な もの で ある が、 カイギ に おいて セツド が ある と いう こと より も ケッテイテキ な キョウヨウ の シルシ を ワタシ は しらない。 しかるに ヨノナカ には もはや カイギ する チカラ を うしなって しまった キョウヨウジン、 あるいは イチド カイギテキ に なる と もはや なんら ホウホウテキ に かんがえる こと の できぬ キョウヨウジン が おおい の で ある。 いずれ も ディレッタンティズム の おちて ゆく キョウヨウ の デカダンス で ある。

 カイギ が ホウホウ で ある こと を リカイ した モノ で あって はじめて ドクダン も また ホウホウ で ある こと を リカイ しうる。 マエ の こと を まず リカイ しない で、 アト の こと を のみ シュチョウ する モノ が ある と したら、 カレ は いまだ ホウホウ の ナニモノ で ある か を リカイ しない もの で ある。

 カイギ は ヒトツ の ところ に とどまる と いう の は まちがって いる。 セイシン の シュウカンセイ を やぶる もの が カイギ で ある。 セイシン が シュウカンテキ に なる と いう こと は セイシン の ウチ に シゼン が ながれこんで いる こと を イミ して いる。 カイギ は セイシン の オートマティズム を やぶる もの と して すでに シゼン に たいする チセイ の ショウリ を あらわして いる。 フカクジツ な もの が コンゲン で あり、 カクジツ な もの は モクテキ で ある。 すべて カクジツ な もの は ケイセイ された もの で あり、 ケッカ で あって、 タンショ と して の ゲンリ は フカクジツ な もの で ある。 カイギ は コンゲン への カンケイヅケ で あり、 ドクダン は モクテキ への カンケイヅケ で ある。 リロンカ が カイギテキ で ある の に たいして ジッセンカ は ドクダンテキ で あり、 ドウキロンシャ が カイギカ で ある の に たいして ケッカロンシャ は ドクダンカ で ある と いう の が ツネ で ある こと は、 これ に よる の で ある。 しかし ドクダン も カイギ も ともに ホウホウ で ある べき こと を リカイ しなければ ならぬ。

 コウテイ が ヒテイ に おいて ある よう に、 ブッシツ が セイシン に おいて ある よう に、 ドクダン は カイギ に おいて ある。

 スベテ の カイギ にも かかわらず ジンセイ は カクジツ な もの で ある。 なぜなら、 ジンセイ は ケイセイ サヨウ で ある ゆえ に、 たんに ある もの で なく、 つくられる もの で ある ゆえ に。

 シュウカン に ついて

 ジンセイ に おいて ある イミ では シュウカン が スベテ で ある。 と いう の は つまり、 あらゆる セイメイ ある もの は カタチ を もって いる、 セイメイ とは カタチ で ある と いう こと が できる、 しかるに シュウカン は それ に よって コウイ に カタチ が できて くる もの で ある。 もちろん シュウカン は たんに クウカンテキ な カタチ では ない。 たんに クウカンテキ な カタチ は しんだ もの で ある。 シュウカン は これ に はんして いきた カタチ で あり、 かよう な もの と して たんに クウカンテキ な もの で なく、 クウカンテキ で ある と ドウジ に ジカンテキ、 ジカンテキ で ある と ドウジ に クウカンテキ な もの、 すなわち ベンショウホウテキ な カタチ で ある。 ジカンテキ に うごいて ゆく もの が ドウジ に クウカンテキ に とまって いる と いう ところ に セイメイテキ な カタチ が できて くる。 シュウカン は キカイテキ な もの で なくて どこまでも セイメイテキ な もの で ある。 それ は カタチ を つくる と いう セイメイ に ナイテキ な ホンシツテキ な サヨウ に ぞくして いる。
 フツウ に シュウカン は おなじ コウイ を ハンプク する こと に よって しょうずる と かんがえられて いる。 けれども ゲンミツ に いう と、 ニンゲン の コウイ に おいて まったく ドウイツ の もの は ない で あろう。 ココ の コウイ には つねに グウゼンテキ な ところ が ある。 ワレワレ の コウイ は グウゼンテキ な、 ジユウ な もの で ある ゆえ に シュウカン も つくられる の で ある。 シュウカン は おなじ こと の ハンプク の ブツリテキ な ケッカ では ない。 カクテイテキ な もの は フカクテイ な もの から でて くる。 ココ の コウイ が グウゼンテキ で ある から シュウカン も できる の で あって、 シュウカン は タスウ の グウゼンテキ な コウイ の いわば トウケイテキ な キソクセイ で ある。 シゼン の ホウソク も トウケイテキ な セイシツ の もの で ある かぎり、 シュウカン は シゼン で ある と いう こと が できる。 シュウカン が シゼン と かんがえられる よう に、 シゼン も シュウカン で ある。 ただ、 シュウカン と いう バアイ、 シゼン は グタイテキ に カタチ と して みられなければ ならぬ。

 モホウ と シュウカン とは ある イミ に おいて あいはんする もの で あり、 ある イミ に おいて ヒトツ の もの で ある。 モホウ は とくに ガイブ の もの、 あたらしい もの の モホウ と して リュウコウ の ゲンイン で ある と いわれる。 リュウコウ に たいして シュウカン は デントウテキ な もの で あり、 シュウカン を やぶる もの は リュウコウ で ある。 リュウコウ より も ヨウイ に シュウカン を やぶりうる もの は ない で あろう。 しかし シュウカン も それ ジシン ヒトツ の モホウ で ある。 それ は ナイブ の もの、 ふるい もの の モホウ で ある。 シュウカン に おいて ジコ は ジコ を モホウ する。 ジコ が ジコ を モホウ する ところ から シュウカン が つくられて くる。 リュウコウ が ヨコ の モホウ で ある と すれば、 シュウカン は タテ の モホウ で ある。 ともかく シュウカン も すでに モホウ で ある イジョウ、 シュウカン に おいて も ワレワレ の ヒトツ の コウイ は タ の コウイ に たいして ガイブ に ある もの の ごとく ドクリツ で なければ ならぬ。 シュウカン を たんに レンゾクテキ な もの と かんがえる こと は アヤマリ で ある。 ヒ-レンゾクテキ な もの が ドウジ に レンゾクテキ で あり、 レンゾクテキ な もの が ドウジ に ヒ-レンゾクテキ で ある ところ に シュウカン は しょうずる。 つまり シュウカン は セイメイ の ホウソク を あらわして いる。
 シュウカン と おなじく リュウコウ も セイメイ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 セイメイ は ケイセイ サヨウ で あり、 モホウ は ケイセイ サヨウ に とって ヒトツ の コンポンテキ な ホウホウ で ある。 セイメイ が ケイセイ サヨウ (ビルドゥング) で ある と いう こと は、 それ が キョウイク (ビルドゥング) で ある こと を イミ して いる。 キョウイク に たいする モホウ の イギ に ついて は コライ しばしば かたられて いる。 その サイ、 シュウカン が ヒトツ の モホウ で ある こと を かんがえる と ともに、 リュウコウ が また モホウ と して いかに おおきな キョウイクテキ カチ を もって いる か に ついて かんがえる こと が タイセツ で ある。
 リュウコウ が カンキョウ から キテイ される よう に、 シュウカン も カンキョウ から キテイ されて いる。 シュウカン は シュタイ の カンキョウ に たいする サギョウテキ テキオウ と して しょうずる。 ただ、 リュウコウ に おいて は シュタイ は カンキョウ に たいして より おおく ジュドウテキ で ある の に はんして、 シュウカン に おいて は より おおく ノウドウテキ で ある。 シュウカン の この チカラ は カタチ の チカラ で ある。 しかし リュウコウ が シュウカン を やぶりうる と いう こと は、 その シュウカン の カタチ が シュタイ と カンキョウ との カンケイ から しょうじた ベンショウホウテキ な もの で ある ため で ある。 リュウコウ の この チカラ は、 それ が シュウカン と あいはんする ホウコウ の もの で ある と いう こと に もとづいて いる。 リュウコウ は サイダイ の テキオウリョク を ゆうする と いわれる ニンゲン に トクチョウテキ で ある。 シュウカン が シゼンテキ な もの で ある の に たいして、 リュウコウ は チセイテキ な もの で ある と さえ かんがえる こと が できる で あろう。
 シュウカン は ジコ に よる ジコ の モホウ と して ジコ の ジコ に たいする テキオウ で ある と ドウジ に、 ジコ の カンキョウ に たいする テキオウ で ある。 リュウコウ は カンキョウ の モホウ と して ジコ の カンキョウ に たいする テキオウ から しょうずる もの で ある が、 リュウコウ にも ジコ が ジコ を モホウ する と いう ところ が ある で あろう。 ワレワレ が リュウコウ に したがう の は、 ナニ か ジコ に こびる もの が ある から で ある。 ただ、 リュウコウ が カタチ と して は フアンテイ で あり、 リュウコウ には カタチ が ない とも いわれる の に たいして、 シュウカン は カタチ と して アンテイ して いる。 しかるに シュウカン が カタチ と して アンテイ して いる と いう こと は、 シュウカン が ギジュツ で ある こと を イミ して いる。 その カタチ は ギジュツテキ に できて くる もの で ある。 ところが リュウコウ には かよう な ギジュツテキ な ノウドウセイ が かけて いる。

 ヒトツ の ジョウネン を シハイ しうる の は リセイ で なくて タ の ジョウネン で ある と いわれる。 しかし ジツ を いう と、 シュウカン こそ ジョウネン を シハイ しうる もの で ある。 ヒトツ の ジョウネン を シハイ しうる の は リセイ で なくて タ の ジョウネン で ある と いわれる よう な、 その ジョウネン の チカラ は どこ に ある の で ある か。 それ は たんに ジョウネン の ウチ に ある の で なく、 むしろ ジョウネン が シュウカン に なって いる ところ に ある。 ワタシ が おそれる の は カレ の ニクシミ では なくて、 ワタシ に たいする カレ の ニクシミ が シュウカン に なって いる と いう こと で ある。 シュウカン に かたちづくられる の で なければ ジョウネン も チカラ が ない。 ヒトツ の シュウカン は タ の シュウカン を つくる こと に よって やぶられる。 シュウカン を シハイ しうる の は リセイ で なくて タ の シュウカン で ある。 いいかえる と、 ヒトツ の カタチ を しんに コクフク しうる もの は タ の カタチ で ある。 リュウコウ も シュウカン に なる まで は フアンテイ な チカラ に すぎない。 ジョウネン は それ ジシン と して は カタチ の そなわらぬ もの で あり、 シュウカン に たいする ジョウネン の ムリョク も そこ に ある。 ヒトツ の ジョウネン が タ の ジョウネン を シハイ しうる の も、 チセイ が くわわる こと に よって つくられる チツジョ の チカラ に もとづいて いる。 ジョウネン は カタチ の そなわらぬ もの と して シゼンテキ な もの と かんがえられる。 ジョウネン に たいする カタチ の シハイ は シゼン に たいする セイシン の シハイ で ある。 シュウカン も カタチ と して たんなる シゼン で なく、 すでに セイシン で ある。

 カタチ を たんに クウカンテキ な カタチ と して しか、 したがって ブッシツテキ な カタチ と して しか ヒョウショウ しえない と いう の は キンダイ の キカイテキ な ゴセイ の こと で ある。 むしろ セイシン こそ カタチ で ある。 ギリシア の コテンテキ テツガク は ブッシツ は ムゲンテイ な シツリョウ で あって セイシン は ケイソウ で ある と かんがえた。 ゲンダイ の セイ の テツガク は ギャク に セイシンテキ セイメイ ソノモノ を ムゲンテイ な リュウドウ の ごとく かんがえて いる。 この テン に おいて セイ の テツガク も カタチ に かんする キンダイ の キカイテキ な カンガエカタ に エイキョウ されて いる。 しかし セイシン を ケイソウ と かんがえた ギリシア テツガク は ケイソウ を なお クウカンテキ に ヒョウショウ した。 トウヨウ の デントウテキ ブンカ は シュウカン の ブンカ で ある と いう こと が できる。 シュウカン が シゼン で ある よう に、 トウヨウ ブンカ の コンテイ に ある の は ある シゼン で ある。 また シュウカン が たんなる シゼン で なく ブンカ で ある よう に、 トウヨウテキ シゼン は ドウジ に ブンカ の イミ を もって いる。 ブンカ シュギテキ な セイヨウ に おいて カタチ が クウカンテキ に ヒョウショウ された の に たいして、 シゼン シュギテキ な トウヨウ の ブンカ は かえって セイシン の しんに セイシンテキ な カタチ を ツイキュウ した。 しかし すでに カタチ と いう イジョウ、 それ は ジュンスイ な セイシン で ある こと が できる か。 シュウカン が シゼン と みられる よう に、 セイシン の カタチ と いって も ドウジ に シゼン の イミ が なければ ならぬ。 シュウカン は たんなる セイシン でも たんなる シンタイ でも ない グタイテキ な セイメイ の ナイテキ な ホウソク で ある。 シュウカン は ジュンスイ に セイシンテキ と いわれる カツドウ の ウチ にも みいだされる シゼンテキ な もの で ある。

 シイ の ハンチュウ と いう もの を ヒューム が シュウカン から セツメイ した の は、 ゲンダイ の ニンシキロン の ヒヒョウ する よう に、 それほど わらう べき こと で ある か どう か、 ワタシ は しらない。 ハンチュウ の たんに ロンリテキ な イミ で なくて その ソンザイロンテキ な イミ を かんがえよう と する バアイ、 それ を シュウカン から セツメイ する より も いっそう テキセツ に セツメイ する シカタ が ある か どう か、 ワタシ は しらない。 ただ その サイ、 シュウカン を たんなる ケイケン から しょうずる もの の よう に かんがえる キカイテキ な ミカタ を はいする こと が ヒツヨウ で ある。 ケイケンロン は キカイロン で ある こと に よって まちがって いる。 ケイケン の ハンプク と いう こと は シュウカン の ホンシツ の セツメイ に とって つねに フジュウブン で ある。 イシ は たとい ヒャクマンベン おなじ ホウコウ に おなじ ソクド で なげられた に して も その ため に シュウカン を うる こと が ない、 シュウカン は セイメイ の ナイテキ な ケイコウ に ぞくして いる。 ケイケンロン に ハンタイ する センケンロン は フツウ に、 ケイケン を シュウカン の エイキョウ の まったく ない カンカク と ドウイツシ して いる。 カンカク を よびおこす サヨウ の ウチ に あらわれる シュウカン から エイキョウ されない よう な チシキ の 「ナイヨウ」 と いう もの が ソンザイ する で あろう か。 シュウカン は シイ の ウチ にも サヨウ する。

 シャカイテキ シュウカン と して の カンシュウ が ドウトク で あり、 ケンイ を もって いる の は、 たんに それ が シャカイテキ な もの で ある と いう こと に よる の では なく、 かえって それ が ヒョウゲンテキ な もの と して カタチ で ある こと に もとづく の で ある。 いかなる カタチ も つねに チョウエツテキ な イミ を もって いる。 カタチ を つくる と いう セイメイ に ホンシツテキ な サヨウ は セイメイ に ナイザイ する チョウエツテキ ケイコウ を しめして いる。 しかし カタチ を つくる こと は ドウジ に セイメイ が ジコ を ヒテイ する こと で ある。 セイメイ は カタチ に よって いき、 カタチ に おいて しぬる。 セイメイ は シュウカン に よって いき、 シュウカン に おいて しぬる。 シ は シュウカン の キョクゲン で ある。

 シュウカン を ジユウ に なしうる モノ は ジンセイ に おいて オオク の こと を なしうる。 シュウカン は ギジュツテキ な もの で ある ゆえ に ジユウ に する こと が できる。 もとより タイテイ の シュウカン は ムイシキテキ な ギジュツ で ある が、 これ を イシキテキ に ギジュツテキ に ジユウ に する ところ に ドウトク が ある。 シュウヨウ と いう もの は かよう な ギジュツ で ある。 もし シュウカン が ただ シゼン で ある ならば、 シュウカン が ドウトク で ある とは いいえない で あろう。 スベテ の ドウトク には ギジュツテキ な もの が ある と いう こと を リカイ する こと が タイセツ で ある。 シュウカン は ワレワレ に もっとも テヂカ な もの、 ワレワレ の チカラ の ウチ に ある シュダン で ある。
 シュウカン が ギジュツ で ある よう に、 スベテ の ギジュツ は シュウカンテキ に なる こと に よって しんに ギジュツ で ある こと が できる。 どのよう な テンサイ も シュウカン に よる の で なければ ナニゴト も ジョウジュ しえない。

 じゅうらい シュウヨウ と いわれる もの は ドウグ ジダイ の シャカイ に おける ドウトクテキ ケイセイ の ホウホウ で ある。 この ジダイ の シャカイ は ユウキテキ で、 ゲンテイ された もの で あった。 しかるに コンニチ では ドウグ ジダイ から キカイ ジダイ に かわり、 ワレワレ の セイカツ の カンキョウ も まったく ちがった もの に なって いる。 その ため に ドウトク に おいて も シュウヨウ と いう もの だけ では フジュウブン に なった。 ドウグ の ギジュツ に ひして キカイ の ギジュツ は シュウカン に イゾン する こと が すくなく、 チシキ に イゾン する こと が おおい よう に、 コンニチ では ドウトク に おいて も チシキ が とくに ジュウヨウ に なって いる の で ある。 しかし また ドウトク は ユウキテキ な シンタイ を はなれうる もの で なく、 そして チセイ の ウチ にも シュウカン が はたらく と いう こと に チュウイ しなければ ならぬ。

 デカダンス は ジョウネン の フテイ な カジョウ で ある の では ない。 デカダンス は ジョウネン の トクシュ な シュウカン で ある。 ニンゲン の コウイ が ギジュツテキ で ある ところ に デカダンス の コンゲン が ある。 ジョウネン が シュウカンテキ に なり、 ギジュツテキ に なる ところ から デカダンス が しょうずる。 シゼンテキ な ジョウネン の バクハツ は むしろ シュウカン を やぶる もの で あり、 デカダンス とは ハンタイ の もの で ある。 スベテ の シュウカン には なんらか デカダンス の ニオイ が かんじられない で あろう か。 シュウカン に よって ワレワレ が しぬる と いう の は、 シュウカン が デカダンス に なる ため で あって、 シュウカン が セイシ で ある ため では ない。

 シュウカン に よって ワレワレ は ジユウ に なる と ともに シュウカン に よって ワレワレ は ソクバク される。 しかし シュウカン に おいて おそる べき もの は、 それ が ワレワレ を ソクバク する こと で ある より も、 シュウカン の ウチ に デカダンス が ふくまれる こと で ある。
 あの モラリスト たち は ヨノナカ に いかに オオク の キカイ な シュウカン が ソンザイ する か に ついて つねに かたって いる。 その こと は いかに シュウカン が デカダンス に おちいりやすい か を しめす もの で ある。 オオク の キカイ な ゲイジュツ が ソンザイ する よう に オオク の キカイ な シュウカン が ソンザイ する。 しかるに その こと は また シュウカン が ゲイジュツ と ドウヨウ、 コウソウリョク に ぞくする こと を しめす で あろう。
 シュウカン に たいして リュウコウ は より チセイテキ で ある と いう こと が できる。 リュウコウ には おなじ よう な デカダンス が ない で あろう。 そこ に リュウコウ の セイメイテキ カチ が ある。 しかしながら リュウコウ ソノモノ が デカダンス に なる バアイ、 それ は もっとも おそる べき もの で ある。 リュウコウ は フアンテイ で、 それ を ささえる カタチ と いう もの が ない から。 リュウコウ は チョクセツ に キョム に つらなる ゆえ に、 その デカダンス には ソコ が ない。

 キョエイ に ついて

 Vanitati creatura subjecta est etiam nolens. ―― 「つくられたる もの の むなしき に ふくせし は、 オノ が ネガイ に よる に あらず、 ふくせしめたまいし モノ に よる なり」 ロマ ショ ダイ 8 ショウ 20 セツ。

 キョエイ は ニンゲンテキ シゼン に おける もっとも フヘンテキ な かつ もっとも コユウ な セイシツ で ある。 キョエイ は ニンゲン の ソンザイ ソノモノ で ある。 ニンゲン は キョエイ に よって いきて いる。 キョエイ は あらゆる ニンゲンテキ な もの の ウチ もっとも ニンゲンテキ な もの で ある。
 キョエイ に よって いきる ニンゲン の セイカツ は ジッタイ の ない もの で ある。 いいかえる と、 ニンゲン の セイカツ は フィクショナル な もの で ある。 それ は ゲイジュツテキ イミ に おいて も そう で ある。 と いう の は、 つまり ジンセイ は フィクション (ショウセツ) で ある。 だから どのよう な ヒト でも ヒトツ だけ は ショウセツ を かく こと が できる。 フツウ の ニンゲン と ゲイジュツカ との サイ は、 ただ ヒトツ しか ショウセツ を かく こと が できない か、 それとも シュジュ の ショウセツ を かく こと が できる か と いう テン に ある と いいうる で あろう。
 ジンセイ が フィクション で ある と いう こと は、 それ が なんら の ジツザイセイ を ゆうしない と いう こと では ない。 ただ その ジツザイセイ は ブッテキ ジツザイセイ と おなじ で なく、 むしろ ショウセツ の ジツザイセイ と ほぼ おなじ もの で ある。 すなわち ジッタイ の ない もの が いかに して ジツザイテキ で ありうる か と いう こと が ジンセイ に おいて、 ショウセツ に おいて と ドウヨウ、 コンポン モンダイ で ある。

 ジンセイ は フィクショナル な もの と して がんらい ただ カノウテキ な もの で ある。 その ゲンジツセイ は ワレワレ の セイカツ ソノモノ に よって はじめて ショウメイ されねば ならぬ。

 いかなる サッカ が カミ や ドウブツ に ついて フィクション を かこう と した で あろう か。 カミ や ドウブツ は、 ニンゲン の パッション が カレラ の ウチ に イニュウ された カギリ に おいて のみ、 フィクション の タイショウ と なる こと が できた の で ある。 ひとり ニンゲン の セイカツ のみ が フィクショナル な もの で ある。 ニンゲン は ショウセツテキ ドウブツ で ある と テイギ する こと が できる で あろう。

 シゼン は ゲイジュツ を モホウ する と いう の は よく しられた コトバ で ある。 けれども ゲイジュツ を モホウ する の は コユウ な イミ に おいて は シゼン の ウチ ニンゲン のみ で ある。 ニンゲン が ショウセツ を モホウ し また モホウ しうる の は、 ニンゲン が ホンセイジョウ ショウセツテキ な もの で ある から で なければ ならぬ。 ニンゲン は ニンゲンテキ に なりはじめる や いなや、 ジコ と ジコ の セイカツ を ショウセツカ しはじめる。

 スベテ の ニンゲンテキ と いわれる パッション は ヴァニティ から うまれる。 ニンゲン の あらゆる パッション は ニンゲンテキ で ある が、 かりに ニンゲン に ドウブツテキ な パッション が ある と して も、 それ が ただちに ヴァニティ に とらえられうる ところ に ニンゲンテキ な もの が みとめられる。

 ヴァニティ は いわば その ジッタイ に したがって かんがえる と キョム で ある。 ヒトビト が キョエイ と いって いる もの は いわば その ゲンショウ に すぎない。 ニンゲンテキ な スベテ の パッション は キョム から うまれ、 その ゲンショウ に おいて キョエイテキ で ある。 ジンセイ の ジツザイセイ を ショウメイ しよう と する モノ は キョム の ジツザイセイ を ショウメイ しなければ ならぬ。 あらゆる ニンゲンテキ ソウゾウ は かよう に して キョム の ジツザイセイ を ショウメイ する ため の もの で ある。

「キョエイ を あまり ゼンブ ジブン の ウチ に たくわえ、 そして それ に コクシ される こと に ならない よう に、 それ に たいして ワレメ を ひらいて おく の が よい。 いわば マイニチ の ハイスイ が ヒツヨウ なの で ある」 かよう に いった ジューベール は ジョウシキカ で あった。 しかし この ジョウシキ には ケンメイ な ショセイホウ が しめされて いる。 キョエイ に よって メツボウ しない ため に、 ニンゲン は その ヒビ の セイカツ に おいて、 あらゆる ショウジ に ついて、 キョエイテキ で ある こと が ヒツヨウ で ある。
 この テン に おいて エイユウ は レイガイ で ある。 エイユウ は その サイゴ に よって、 つまり メツボウ に よって ジコ を ショウメイ する。 キゲキ の シュジンコウ には エイユウ が ない、 エイユウ は ただ ヒゲキ の シュジンコウ で ある こと が できる。

 ニンゲン は キョエイ に よって いきる と いう こと こそ、 カレ の セイカツ に とって チエ が ヒツヨウ で ある こと を しめす もの で ある。 ジンセイ の チエ は すべて キョム に いたらなければ ならぬ。

 シヘイ は フィクショナル な もの で ある。 しかし また キンカ も フィクショナル な もの で ある。 けれども シヘイ と キンカ との アイダ には サベツ が かんがえられる。 ヨノナカ には フカン シヘイ と いう もの も ある の で ある。 スベテ が キョエイ で ある ジンセイ に おいて チエ と よばれる もの は キンカ と シヘイ と を、 とくに フカン シヘイ と を クベツ する ハンダンリョク で ある。 もっとも キンカ も それ ジシン フィクショナル な もの では ない。

 しかし ニンゲン が キョエイテキ で ある と いう こと は すでに ニンゲン の より たかい セイシツ を しめして いる。 キョエイシン と いう の は ジブン が ある より も イジョウ の もの で ある こと を しめそう と する ニンゲンテキ な パッション で ある。 それ は カソウ に すぎない かも しれない。 けれども イッショウ カソウ しとおした モノ に おいて、 その ヒト の ホンセイ と カセイ と を クベツ する こと は フカノウ に ちかい で あろう。 ドウトク も また フィクション では ない か。 それ は フカン シヘイ に たいする キンカ ほど の イミ を もって いる。

 ニンゲン が キョエイテキ で ある と いう こと は ニンゲン が シャカイテキ で ある こと を しめして いる。 つまり シャカイ も フィクション の ウエ に セイリツ して いる。 したがって シャカイ に おいて は シンヨウ が スベテ で ある。 あらゆる フィクション が キョエイ で ある と いう の では ない。 フィクション に よって セイカツ する ニンゲン が キョエイテキ で ありうる の で ある。

 ブンメイ の シンポ と いう の は ニンゲン の セイカツ が より おおく フィクション の ウエ に きずかれる こと で ある と すれば、 ブンメイ の シンポ と ともに キョエイ は ニチジョウ サハンジ と なる。 そして エイユウテキ な ヒゲキ も また すくなく なる。

 フィクション で ある もの を シゼンテキ と おもわれる もの に する の は シュウカン の チカラ で ある。 むしろ シュウカンテキ に なる こと に よって フィクション は はじめて フィクション の イミ を ゆうする に いたる の で ある。 かくして ただ たんに キョエイ で ある もの は いまだ フィクション とは いわれない。 それゆえに フィクション は キョエイ で ある に して も、 すでに フィクション と して ダトウ する イジョウ、 たんなる キョエイ で ある こと から より たかい ニンゲンテキ な もの と なって いる。 シュウカン は すでに かよう な より たかい ニンゲンセイ を あらわして いる。 シュウカン は たんに シゼンテキ な もの で なく、 すでに チセイテキ な もの の ヒトツ の カタチ で ある。

 スベテ の ニンゲン の アク は コドク で ある こと が できない ところ から しょうずる。

 いかに して キョエイ を なくする こと が できる か。 キョム に きする こと に よって。 それとも キョム の ジツザイセイ を ショウメイ する こと に よって。 いいかえる と、 ソウゾウ に よって。 ソウゾウテキ な セイカツ のみ が キョエイ を しらない。 ソウゾウ と いう の は フィクション を つくる こと で ある、 フィクション の ジツザイセイ を ショウメイ する こと で ある。

 キョエイ は もっとも オオク の バアイ ショウヒ と むすびついて いる。

 ヒト に キ に いらん が ため に、 あるいは タ の モノ に たいして ジブン を こころよき もの に せん が ため に キョエイテキ で ある こと は、 ジューベール の いった ごとく、 すでに 「ハンブン の トク」 で ある。 スベテ の キョエイ は この ハンブン の トク の ため に ゆるされて いる。 キョエイ を はいする こと は それ ジシン ヒトツ の キョエイ で ありうる のみ で なく、 ココロ の ヤサシサ の テキ で ある ゴウマン に だして いる こと が しばしば で ある。

 その リソウコク から ゲイジュツカ を ツイホウ しよう と した プラトン には ヒトツ の チエ が ある。 しかし ジコ の セイカツ に ついて シン の ゲイジュツカ で ある と いう こと は、 ニンゲン の タチバ に おいて キョエイ を クチク する ため の サイコウ の もの で ある。

 キョエイ は セイカツ に おいて ソウゾウ から クベツ される ディレッタンティズム で ある。 キョエイ を ゲイジュツ に おける ディレッタンティズム に ひして かんがえる モノ は、 キョエイ の テキセツ な ショリホウ を ハッケン しうる で あろう。

 メイヨシン に ついて

 メイヨシン と キョエイシン と ほど コンドウ されやすい もの は ない。 しかも リョウシャ ほど クベツ の ヒツヨウ な もの は ない。 この フタツ の もの を クベツ する こと が ジンセイ に ついて の チエ の すくなくとも ハンブン で ある と さえ いう こと が できる で あろう。 メイヨシン が キョエイシン と ゴカイ される こと は はなはだ おおい、 しかし また メイヨシン は きわめて ヨウイ に キョエイシン に へんずる もの で ある。 ココ の バアイ に ついて リョウシャ を クベツ する には よい メ を もたねば ならぬ。

 ジンセイ に たいして どんな に ゲンカク な ニンゲン も メイヨシン を ホウキ しない で あろう。 ストイック と いう の は むしろ メイヨシン と キョエイシン と を クベツ して、 コウシャ に ユウワク されない モノ の こと で ある。 その クベツ が できない バアイ、 ストイック と いって も ヒトツ の キョエイ に すぎぬ。

 キョエイシン は まず シャカイ を タイショウ と して いる。 しかるに メイヨシン は まず ジコ を タイショウ と する。 キョエイシン が タイ-セケンテキ で ある の に はんして、 メイヨシン は ジコ の ヒンイ に ついて の ジカク で ある。
 スベテ の ストイック は ホンシツテキ に コジン シュギシャ で ある。 カレ の ストイシズム が ジコ の ヒンイ に ついて の ジカク に もとづく バアイ、 カレ は よき イミ に おける コジン シュギシャ で あり、 そして それ が キョエイ の イッシュ で ある バアイ、 カレ は あしき イミ に おける コジン シュギシャ に すぎぬ。 ストイシズム の カチ も ゲンカイ も、 それ が ホンシツテキ に コジン シュギ で ある ところ に ある。 ストイシズム は ジコ の もの で ある ショ-ジョウネン を ジコ とは カカワリ の ない シゼンブツ の ごとく みる こと に よって セイギョ する の で ある が、 それ に よって ドウジ に ジコ あるいは ジンカク と いう チュウショウテキ な もの を カクリツ した。 この チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ が その ドウトク の ホンシツ を なして いる。

 メイヨシン と コジン イシキ とは フカブン で ある。 ただ ニンゲン だけ が メイヨシン を もって いる と いわれる の も、 ニンゲン に おいて は ドウブツ に おいて より も はるか に おおく コセイ が ブンカ して いる こと に カンケイ する で あろう。 メイヨシン は コジン イシキ に とって いわば コウセイテキ で ある。 コジン で あろう と する こと、 それ が ニンゲン の サイシン の、 また サイコウ の メイヨシン で ある。
 メイヨシン も、 キョエイシン と ドウヨウ、 シャカイ に むかって いる と いわれる で あろう。 しかし それ に して も、 キョエイシン に おいて は アイテ は 「セケン」 と いう もの、 くわしく いう と、 コウ でも なく オツ でも ない と ドウジ に コウ でも あり オツ でも ある ところ の 「ヒト」、 アノニム な 「ヒト」 で ある の に はんして、 メイヨシン に おいて は アイテ は コウ で あり あるいは オツ で あり、 ソレゾレ の ニンゲン が コジン と して の ドクジセイ を うしなわない で いる ところ の シャカイ で ある。 キョエイシン は ホンシツテキ に アノニム で ある。
 キョエイシン の トリコ に なる とき、 ニンゲン は ジコ を うしない、 コジン の ドクジセイ の イシキ を うしなう の が ツネ で ある。 その とき カレ は アノニム な 「ヒト」 を タイショウ と する こと に よって カレ ジシン アノニム な 「ヒト」 と なり、 キョム に きする。 しかるに メイヨシン に おいて は、 それ が キョエイシン に へんずる こと なく しんに メイヨシン に とどまって いる かぎり、 ニンゲン は ジコ と ジコ の ドクジセイ の ジカク に たつ の で なければ ならぬ。
 ヒト は ナニ より も おおく キョエイシン から モホウ し、 リュウコウ に ミ を まかせる。 リュウコウ は アノニム な もの で ある。 それだから メイヨシン を もって いる ニンゲン が もっとも きらう の は リュウコウ の モホウ で ある。 メイヨシン と いう の は すべて アノニム な もの に たいする タタカイ で ある。

 ハッセイテキ に いう と、 ヨツアシ で チ に はう こと を やめた とき ニンゲン には メイヨシン が しょうじた。 カレ が チョクリツ して ホコウ する よう に なった と いう こと は、 カレ の メイヨシン の サイショ の、 サイダイ の コウイ で あった。
 チョクリツ する こと に よって ニンゲン は チュウショウテキ な ソンザイ に なった。 その とき カレ には テ と いう もの、 この あらゆる キカン の ウチ もっとも チュウショウテキ な キカン が できた、 それ は ドウジ に カレ に とって チュウショウテキ な シコウ が カノウ に なった こと で ある、 -トウトウ、 ――そして メイヨシン と いう の は すべて チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ で ある。
 チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ を もって いる か どう か が メイヨシン に とって キジュン で ある。 かくして ヨノナカ に おいて メイヨシン から でた もの の よう に いわれて いる こと も じつは キョエイシン に もとづく もの が いかに おおい で あろう。

 チュウショウテキ な ソンザイ に なった ニンゲン は もはや カンキョウ と チョクセツ に ユウゴウ して いきる こと が できず、 むしろ カンキョウ に タイリツ し、 これ と たたかう こと に よって いきねば ならぬ。 ――メイヨシン と いう の は あらゆる イミ に おける センシ の ココロ で ある。 キシドウ とか ブシドウ とか に おいて メイヨシン が コンポンテキ な トク と かんがえられた の も これ に カンレン して いる。

 たとえば、 ナ を おしむ と いう。 ナ と いう の は チュウショウテキ な もの で ある。 もし それ が チュウショウテキ な もの で ない なら、 そこ に メイヨシン は なく、 キョエイシン が ある だけ で ある。 イマ セケン の ヒョウバン と いう もの は アノニム な もの で ある。 したがって ヒョウバン を キ に する こと は メイヨシン で なくて キョエイシン に ぞくして いる。 アノニム な もの と チュウショウテキ な もの とは おなじ では ない。 リョウシャ を クベツ する こと が タイセツ で ある。
 スベテ の メイヨシン は なんらか の シカタ で エイエン を かんがえて いる。 この エイエン と いう もの は チュウショウテキ な もの で ある。 たとえば ナ を おしむ と いう バアイ、 ナ は コジン の ヒンイ の イシキ で あり、 しかも それ は チュウショウテキ な もの と して の エイエン に カンケイ-づけられて いる。 キョエイシン は しかるに ジカンテキ な もの の もっとも ジカンテキ な もの で ある。
 チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ に よって コジン と いう もっとも ゲンジツテキ な もの の イシキ が セイリツ する、 ――これ が ニンゲン の ソンザイ の ヒミツ で ある。 たとえば ジンルイ と いう の は チュウショウテキ な もの で ある。 ところで この ジンルイ と いう チュウショウテキ な もの に たいする ジョウネツ なし には ニンゲン は シン の コジン と なる こと が できぬ。

 メイヨシン の チュウショウセイ の ウチ に その シンリ と ドウジ に その キョギ が ある。

 メイヨシン に おいて ほろぶ モノ は チュウショウテキ な もの に おいて ほろぶ モノ で あり、 そして この チュウショウテキ な もの に おいて ほろびうる と いう こと は ニンゲン に コユウ な こと で あり、 その こと が カレ の メイヨシン に ぞくして いる。
 メイヨシン は ジコ イシキ と フカブン の もの で ある が、 ジコ と いって も この バアイ チュウショウテキ な もの で ある。 したがって メイヨシン は ジコ に とどまる こと なく、 たえず ソト に むかって、 シャカイ に たいして でて ゆく。 そこ に メイヨシン の ムジュン が ある。

 メイヨシン は ハクジツ の ウチ に なければ ならない。 だが ハクジツ とは ナニ か。 チュウショウテキ な クウキ で ある。
 メイヨシン は アノニム な シャカイ を アイテ に して いる の では ない。 しかしながら それ は なお チュウショウテキ な コウ、 チュウショウテキ な オツ、 つまり チュウショウテキ な シャカイ を アイテ に して いる の で ある。

 アイ は グタイテキ な もの に たいして の ホカ うごかない。 この テン に おいて アイ は メイヨシン と タイセキテキ で ある。 アイ は ケンキョ で ある こと を もとめ、 そして メイヨシン は もっとも しばしば ゴウマン で ある。

 シュウキョウ の ヒミツ は エイエン とか ジンルイ とか いう チュウショウテキ な もの が そこ では もっとも グタイテキ な もの で ある と いう こと に ある。 シュウキョウ こそ メイヨシン の ゲンカイ を メイリョウ に する もの で ある。

 メイヨシン は チュウショウテキ な もの で ある に して も、 ムカシ の シャカイ は イマ の シャカイ ほど チュウショウテキ な もの で なかった ゆえ に、 メイヨシン は なお コンテイ の ある もの で あった。 しかるに コンニチ シャカイ が チュウショウテキ な もの に なる に したがって メイヨシン も また ますます チュウショウテキ な もの に なって いる。 ゲマインシャフト-テキ な グタイテキ な シャカイ に おいて は チュウショウテキ な ジョウネツ で ある ところ の メイヨシン は ヒトツ の おおきな トク で ある こと が できた。 ゲゼルシャフト-テキ な チュウショウテキ な シャカイ に おいて は このよう な メイヨシン は コンテイ の ない もの に され、 キョエイシン と メイヨシン との クベツ も みわけがたい もの に なって いる。

 イカリ に ついて

 Ira Dei (カミ の イカリ)、 ――キリスト-キョウ の ブンケン を みる たび に つねに かんがえさせられる の は これ で ある。 なんと いう おそろしい シソウ で あろう。 また なんと いう ふかい シソウ で あろう。
 カミ の イカリ は いつ あらわれる の で ある か、 ――セイギ の ジュウリン された とき で ある。 イカリ の カミ は セイギ の カミ で ある。
 カミ の イカリ は いかに あらわれる の で ある か、 ――テンペン チイ に おいて で ある か、 ヨゲンシャ の イカリ に おいて で ある か、 それとも タイシュウ の イカリ に おいて で ある か。 カミ の イカリ を おもえ!

 しかし セイギ とは ナニ か。 いかる カミ は かくれたる カミ で ある。 セイギ の ホウソク と かんがえられる よう に なった とき、 ニンゲン に とって カミ の イカリ は わすれられて しまった。 イカリ は ケイジ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 いかる カミ は ホウソク の カミ では ない。
 いかる カミ には デモーニッシュ な ところ が なければ ならぬ。 カミ は もと デモーニッシュ で あった の で ある。 しかるに イマ では カミ は ニンゲンテキ に されて いる、 デーモン も また ニンゲンテキ な もの に されて いる。 ヒューマニズム と いう の は イカリ を しらない こと で あろう か。 そう だ と した なら、 コンニチ ヒューマニズム に どれほど の イミ が ある で あろう か。
 アイ の カミ は ニンゲン を ニンゲンテキ に した。 それ が アイ の イミ で ある。 しかるに セカイ が ニンゲンテキ に、 あまり に ニンゲンテキ に なった とき ヒツヨウ なの は イカリ で あり、 カミ の イカリ を しる こと で ある。
 コンニチ、 アイ に ついて は ダレ も かたって いる。 ダレ が イカリ に ついて シンケン に かたろう と する の で ある か。 イカリ の イミ を わすれて ただ アイ に ついて のみ かたる と いう こと は コンニチ の ニンゲン が ムセイカク で ある と いう こと の シルシ で ある。
 せつに ギジン を おもう。 ギジン とは ナニ か、 ――いかる こと を しれる モノ で ある。

 コンニチ、 イカリ の リンリテキ イミ ほど おおく わすれられて いる もの は ない。 イカリ は ただ さく べき もの で ある か の よう に かんがえられて いる。 しかしながら、 もし ナニモノ か が あらゆる バアイ に さく べき で ある と すれば、 それ は ニクシミ で あって イカリ では ない。 ニクシミ も イカリ から チョクセツ に はっした バアイ には イミ を もつ こと が できる、 つまり イカリ は ニクシミ の リンリセイ を キソ-づけうる よう な もの で ある。 イカリ と ニクシミ とは ホンシツテキ に ことなる にも かかわらず きわめて しばしば コンドウ されて いる、 ――イカリ の イミ が わすれられて いる ショウコ で ある と いえよう。
 イカリ は より ふかい もの で ある。 イカリ は ニクシミ の チョクセツ の ゲンイン と なる こと が できる の に はんし、 ニクシミ は ただ フタイテキ に しか イカリ の ゲンイン と なる こと が できぬ。

 スベテ の イカリ は トッパツテキ で ある。 その こと は イカリ の ジュンスイセイ あるいは タンジュンセイ を しめして いる。 しかるに ニクシミ は ほとんど すべて シュウカンテキ な もの で あり、 シュウカンテキ に エイゾク する ニクシミ のみ が ニクシミ と かんがえられる ほど で ある。 ニクシミ の シュウカンセイ が その シゼンセイ を あらわす と すれば、 イカリ の トッパツセイ は その セイシンセイ を あらわして いる。 イカリ が トッパツテキ な もの で ある と いう こと は その ケイジテキ な フカサ を かたる もの で なければ ならぬ。 しかるに ニクシミ が ナニ か ふかい もの の よう に みえる と すれば、 それ は ニクシミ が シュウカンテキ な エイゾクセイ を もって いる ため で ある。

 イカリ ほど セイカク な ハンダン を みだす もの は ない と いわれる の は ただしい で あろう。 しかし いかる ニンゲン は イカリ を あらわさない で にくんで いる ニンゲン より も つねに じょせらる べき で ある。

 ヒト は アイ に シュルイ が ある と いう。 アイ は カミ の アイ (アガペ)、 リソウ に たいする アイ (プラトン-テキ エロス)、 そして ニクタイテキ な アイ と いう ミッツ の ダンカイ に クベツ されて いる。 そう で ある なら、 それ に ソウオウ して イカリ にも、 カミ の イカリ、 メイヨシン から の イカリ、 キブンテキ な イカリ と いう ミッツ の シュルイ を クベツ する こと が できる で あろう。 イカリ に ダンカイ が かんがえられる と いう こと は イカリ の フカサ を しめす もの で ある。 ところが ニクシミ に ついて は ドウヨウ の ダンカイ を クベツ しうる で あろう か。 イカリ の ナイメンセイ が リカイ されねば ならぬ。
 アイ と ニクシミ と を つねに タイリツテキ に かんがえる こと は キカイテキ に すぎる と いいうる で あろう。 すくなくとも カミ の ベンショウホウ は アイ と ニクシミ の ベンショウホウ で なくて アイ と イカリ の ベンショウホウ で ある。 カミ は にくむ こと を しらず、 いかる こと を しって いる。 カミ の イカリ を わすれた オオク の アイ の セツ は カミ の アイ をも ニンゲンテキ な もの に して しまった。

 ワレワレ の イカリ の オオク は キブンテキ で ある。 キブンテキ な もの は セイリテキ な もの に むすびついて いる。 したがって イカリ を しずめる には セイリテキ な シュダン に うったえる の が よい。 イッパン に セイリ は ドウトク に ふかい カンケイ が ある。 ムカシ の ヒト は その こと を よく しって おり、 しって よく ジッコウ した が、 イマ では その チエ は しだいに とぼしく なって いる。 セイリガク の ない リンリガク は、 ニクタイ を もたぬ ニンゲン と ドウヨウ、 チュウショウテキ で ある。 その セイリガク は ヒトツ の ギジュツ と して タイソウ で なければ ならない。 タイソウ は シンタイ の ウンドウ に たいする ただしい ハンダン の シハイ で あり、 それ に よって セイシン の ムチツジョ も ととのえられる こと が できる。 ジョウネン の うごく まま に まかされよう と して いる シンタイ に たいして テキトウ な タイソウ を こころえて いる こと は ジョウネン を シハイ する に カンヨウ な こと で ある。

 イカリ を しずめる サイジョウ の シュダン は トキ で ある と いわれる で あろう。 イカリ は とりわけ トッパツテキ な もの で ある から。
 カミ は トキ に みじめ な ニンゲン を なぐさめる よう に メイレイ した。 しかし トキ は ニンゲン を すくう で あろう か。 トキ に よって なぐさめられる と いう こと は ニンゲン の ハカナサ イッパン に ぞくして いる。 トキ とは ショウメツセイ で ある。

 ワレワレ の イカリ の オオク は シンケイ の ウチ に ある。 それだから シンケイ を いらだたせる ゲンイン に なる よう な こと、 たとえば、 クウフク とか スイミン-ブソク とか いう こと が さけられねば ならぬ。 すべて ちいさい こと に よって しょうずる もの は ちいさい こと に よって しょうじない よう に する こと が できる。 しかし きわめて ちいさい こと に よって に せよ いったん しょうじた もの は きわめて おおきな ワザワイ を ひきおこす こと が カノウ で ある。
 シャカイ と ブンカ の ゲンジョウ は ニンゲン を はなはだ シンケイシツ に して いる。 そこで イカリ も ジョウシュウテキ に なり、 ジョウシュウテキ に なる こと に よって イカリ は ホンライ の セイシツ を うしなおう と して いる。 イカリ と ショウソウ と が たえず コンコウ して いる。 おなじ リユウ から、 コンニチ では イカリ と ニクシミ との クベツ も アイマイ に なって いる。 いかる ヒト を みる とき、 ワタシ は なんだか コフウ な ニンゲン に あった よう に かんじる。

 イカリ は フクシュウシン と して エイゾク する こと が できる。 フクシュウシン は ニクシミ の カタチ を とった イカリ で ある。 しかし イカリ は エイゾク する バアイ その ジュンスイセイ を たもつ こと が コンナン で ある。 イカリ から はっした フクシュウシン も たんなる ニクシミ に てんじて しまう の が ほとんど ツネ で ある。

 ニクヨクテキ な アイ も エイゾク する バアイ しだいに ジョウカ されて いっそう コウジ の アイ に たかまって ゆく こと が できる。 そこ に アイ と いう もの の シンピ が ある。 アイ の ミチ は ジョウショウ の ミチ で あり、 その こと が ヒューマニズム の カンネン と イッチ しやすい。 スベテ の ヒューマニズム の コンテイ には エロティシズム が ある と いえる で あろう。
 しかるに イカリ に おいて は エイゾク する こと に よって いっそう コウジ の イカリ に たかまる と いう こと が ない。 しかし それだけ ふかく カミ の イカリ と いう もの の シンピ が かんじられる の で ある。 イカリ には ただ カコウ の ミチ が ある だけ で ある。 そして それだけ イカリ の コンゲン の フカサ を おもわねば ならない の で ある。
 アイ は トウイツ で あり、 ユウゴウ で あり、 レンゾク で ある。 イカリ は ブンリ で あり、 ドクリツ で あり、 ヒレンゾク で ある。 カミ の イカリ を かんがえる こと なし に カミ の アイ と ニンゲンテキ な アイ との クベツ を かんがえうる で あろう か。 ユダヤ の ヨゲンシャ なし に キリスト は かんがえうる で あろう か。 キュウヤク なし に シンヤク は かんがえうる で あろう か。

 カミ で さえ ジコ が ドクリツ の ジンカク で ある こと を イカリ に よって しめさねば ならなかった。

 とくに ニンゲンテキ と いわれうる イカリ は メイヨシン から の イカリ で ある。 メイヨシン は コジン イシキ と フカブン で ある。 イカリ に おいて ニンゲン は ムイシキテキ に せよ ジコ が コジン で ある こと、 ドクリツ の ジンカク で ある こと を しめそう と する の で ある。 そこ に イカリ の リンリテキ イミ が かくされて いる。
 コンニチ、 イカリ と いう もの が アイマイ に なった の は、 この シャカイ に おいて メイヨシン と キョエイシン との クベツ が アイマイ に なった と いう ジジョウ に ソウオウ して いる。 それ は また この シャカイ に おいて ムセイカク な ニンゲン が おおく なった と いう ジジツ を ハンエイ して いる。 いかる ニンゲン は すくなくとも セイカクテキ で ある。

 ヒト は ケイベツ された と かんじた とき もっとも よく いかる。 だから ジシン の ある モノ は あまり いからない。 カレ の メイヨシン は カレ の イカリ が タンキ で ある こと を ふせぐ で あろう。 ホント に ジシン の ある モノ は しずか で、 しかも イゲン を そなえて いる。 それ は カンセイ した セイカク の こと で ある。

 アイテ の イカリ を ジブン の ココロ に おいて さけよう と して ジブン の ユウエツ を しめそう と する の は おろか で ある。 その バアイ ジブン が ユウエツ を しめそう と すれば する ほど アイテ は さらに ケイベツ された の を かんじ、 その イカリ は つのる。 ホント に ジシン の ある モノ は ジブン の ユウエツ を しめそう など とは しない で あろう。

 イカリ を さける サイジョウ の シュダン は キチ で ある。

 イカリ には どこ か キゾク シュギテキ な ところ が ある。 よい イミ に おいて も、 わるい イミ に おいて も。

 コドク の ナン で ある か を しって いる モノ のみ が しんに いかる こと を しって いる。

 アイロニー と いう ヒトツ の チテキ セイシツ は ギリシアジン の いわゆる ヒュブリス (オゴリ) に タイオウ する。 ギリシアジン の ヒュブリス は カレラ の いかりやすい セイシツ を はなれて そんしなかった で あろう。 メイヨシン と キョエイシン との クベツ が アイマイ に なり、 イカリ の イミ が アイマイ に なった コンニチ に おいて は、 たとい アイロニー は まれ に なって いない と して も、 すくなくとも その コウヨウ の ダイブブン を うしなった。

 ニンゲン の ジョウケン に ついて

 どんな ホウホウ でも よい、 ジコ を シュウチュウ しよう と すれば する ほど、 ワタシ は ジコ が ナニ か の ウエ に ういて いる よう に かんじる。 いったい なんの ウエ に で あろう か。 キョム の ウエ に と いう の ホカ ない。 ジコ は キョム の ナカ の ヒトツ の テン で ある。 この テン は かぎりなく シュクショウ される こと が できる。 しかし それ は どんな に ちいさく なって も、 ジコ が その ナカ に うきあがって いる キョム と ヒトツ の もの では ない。 セイメイ は キョム で なく、 キョム は むしろ ニンゲン の ジョウケン で ある。 けれども この ジョウケン は、 あたかも ヒトツ の ナミ、 ヒトツ の ホウマツ で さえ も が、 ウミ と いう もの を はなれて かんがえられない よう に、 それ なし には ニンゲン が かんがえられぬ もの で ある。 ジンセイ は ホウマツ の ごとし と いう シソウ は、 その ホウマツ の ジョウケン と して の ナミ、 そして ウミ を かんがえない バアイ、 まちがって いる。 しかし また ホウマツ や ナミ が ウミ と ヒトツ の もの で ある よう に、 ニンゲン も その ジョウケン で ある ところ の キョム と ヒトツ の もの で ある。 セイメイ とは キョム を かきあつめる チカラ で ある。 それ は キョム から の ケイセイリョク で ある。 キョム を かきあつめて かたちづくられた もの は キョム では ない。 キョム と ニンゲン とは シ と セイ との よう に ことなって いる。 しかし キョム は ニンゲン の ジョウケン で ある。

 ニンゲン の ジョウケン と して タ の ムスウ の もの が かんがえられる で あろう。 たとえば、 この ヘヤ、 この ツクエ、 この ショモツ、 あるいは この ショモツ が あたえる チシキ、 また この イエ の ニワ、 ゼンタイ の シゼン、 あるいは カゾク、 そして ゼンタイ の シャカイ…… セカイ。 この イクツ か の コトバ で あらわされた もの は さらに ムスウ の ヨウソ に ブンカイ する こと が できる。 それら ムスウ の ヨウソ は たがいに カンケイ して いる。 また ニンゲン と いう もの も、 その シンタイ も、 その セイシン も、 それら の ヨウソ と おなじ チツジョ の もの に かぎりなく ブンカイ する こと が カノウ で ある。 そして ヒトツ の サイボウ に とって タ の スベテ の サイボウ は ジョウケン で あり、 ヒトツ の シンショウ に とって タ の スベテ の シンショウ は ジョウケン で ある。 これら の ジョウケン は タ の あらゆる ジョウケン と カンケイ して いる。 かよう に どこまでも ブンカイ を すすめて ゆく ならば、 ジョウケン イガイ に なんらか ニンゲン ソノモノ を ハッケン する こと は フカノウ で ある よう に おもわれる。 ワタシ は ジコ が セカイ の ヨウソ と おなじ ヨウソ に ブンカイ されて しまう の を みる。 しかしながら それ にも かかわらず ワタシ が セカイ と ことなる ある もの と して ソンザイ する こと は たしか で ある。 ニンゲン と ニンゲン の ジョウケン とは どこまでも ことなって いる。 この こと は いかに して カノウ で あろう か。
 モノ が ニンゲン の ジョウケン で ある と いう の は、 それ が キョム の ナカ に おいて はじめて そのよう な もの と して あらわれる と いう こと に よって で ある。 いいかえる と、 セカイ ――それ を ムゲン に おおきく かんがえる に せよ、 ムゲン に ちいさく かんがえる に せよ―― が ニンゲン の ジョウケン で ある こと に とって キョム は その アプリオリ で ある。 キョム と いう ニンゲン の コンポンテキ ジョウケン に セイヤク された もの と して、 それ ジシン キョム に きしうる もの、 いな、 キョム で ある もの と して、 セカイ の もの は ニンゲン の ジョウケン で ある。 かよう に して はじめて、 ニンゲン は セカイ と おなじ ヨウソ に、 それら の ヨウソ の カンケイ に、 かぎりなく ブンカイ されうる に して も、 ニンゲン と セカイ との アイダ に、 ニンゲン と ニンゲン の ジョウケン との アイダ に、 どこまでも クベツ が ソンザイ しうる の で ある。 キョム が ニンゲン の ジョウケン の ジョウケン で ない ならば、 いかに して ワタシ の ジコ は セカイ の ヨウソ と コンポンテキ に クベツ される ある もの で ありうる で あろう か。

 キョム が ニンゲン の ジョウケン あるいは ニンゲン の ジョウケン で ある もの の ジョウケン で ある ところ から、 ジンセイ は ケイセイ で ある と いう こと が したがって くる。 ジコ は ケイセイリョク で あり、 ニンゲン は ケイセイ された もの で ある と いう のみ では ない、 セカイ も ケイセイ された もの と して はじめて ニンゲンテキ セイメイ に とって ゲンジツテキ に カンキョウ の イミ を もつ こと が できる の で ある。 セイメイ は みずから カタチ と して ソト に カタチ を つくり、 モノ に カタチ を あたえる こと に よって ジコ に カタチ を あたえる。 かよう な ケイセイ は ニンゲン の ジョウケン が キョム で ある こと に よって カノウ で ある。
 セカイ は ヨウソ に ブンカイ され、 ニンゲン も この ヨウソテキ セカイ の ウチ へ ブンカイ され、 そして ヨウソ と ヨウソ との アイダ には カンケイ が みとめられ、 ヨウソ ソノモノ も カンケイ に ブンカイ されて しまう こと が できる で あろう。 この カンケイ は イクツ か の ホウソク に おいて テイシキカ する こと が できる で あろう。 しかし かよう な セカイ に おいて は セイメイ は セイリツ する こと が できない。 なにゆえ で ある か。 セイメイ は チュウショウテキ な ホウソク で なく、 たんなる カンケイ でも、 カンケイ の ワ でも セキ でも なく、 セイメイ は カタチ で あり、 しかるに かよう な セカイ に おいて は カタチ と いう もの は かんがえられない から で ある。 ケイセイ は どこ か タ の ところ から、 すなわち キョム から かんがえられねば ならぬ。 ケイセイ は つねに キョム から の ケイセイ で ある。 カタチ の セイリツ も、 カタチ と カタチ との カンケイ も、 カタチ から カタチ への ヘンカ も ただ キョム を コンテイ と して リカイ する こと が できる。 そこ に カタチ と いう もの の ホンシツテキ な トクチョウ が ある。

 コダイ は ジッタイ ガイネン に よって シコウ し、 キンダイ は カンケイ ガイネン あるいは キノウ ガイネン (カンスウ ガイネン) に よって シコウ した。 あたらしい シコウ は カタチ の シコウ で なければ ならぬ。 カタチ は たんなる ジッタイ で なく、 たんなる カンケイ ないし キノウ でも ない。 カタチ は いわば リョウシャ の ソウゴウ で ある。 カンケイ ガイネン と ジッタイ ガイネン と が ヒトツ で あり、 ジッタイ ガイネン と キノウ ガイネン と が ヒトツ で ある ところ に カタチ が かんがえられる。

 イゼン の ニンゲン は ゲンテイ された セカイ の ウチ に セイカツ して いた。 その すむ チイキ は ハシ から ハシ まで ミトオシ の できる もの で あった。 その もちいる ドウグ は どこ の ナニガシ が つくった もの で あり、 その ギリョウ は どれほど の もの で ある か が わかって いた。 また カレ が うる ホウドウ や チシキ に して も、 どこ の ナニガシ から でた もの で あり、 その ヒト が どれほど シンヨウ の できる オトコ で ある か が しられて いた。 このよう に カレ の セイカツ ジョウケン、 カレ の カンキョウ が ゲンテイ された もの で あった ところ から、 したがって カタチ の みえる もの で あった ところ から、 ニンゲン ジシン も、 その セイシン に おいて も、 その ヒョウジョウ に おいて も、 その フウボウ に おいて も、 はっきり した カタチ の ある もの で あった。 つまり イゼン の ニンゲン には セイカク が あった。
 しかるに コンニチ の ニンゲン の ジョウケン は ことなって いる。 ゲンダイジン は ムゲンテイ な セカイ に すんで いる。 ワタシ は ワタシ の つかって いる ドウグ が どこ の ナニガシ の つくった もの で ある か を しらない し、 ワタシ が ヨリドコロ に して いる ホウドウ や チシキ も どこ の ナニガシ から でた もの で ある か を しらない。 スベテ が アノニム (ムメイ) の もの で ある と いう のみ で ない。 スベテ が アモルフ (ムテイケイ) の もの で ある。 かよう な セイカツ ジョウケン の ウチ に いきる もの と して ゲンダイジン ジシン も ムメイ な、 ムテイケイ な もの と なり、 ムセイカク な もの と なって いる。
 ところで ゲンダイジン の セカイ が かよう に ムゲンテイ な もの で ある の は、 じつは、 それ が もっとも ゲンテイ された ケッカ と して しょうじた こと で ある。 コウツウ の ハッタツ に よって セカイ の スミズミ まで たがいに カンケイ-づけられて いる。 ワタシ は みえない ムスウ の もの に つながれて いる。 コリツ した もの は ムスウ の カンケイ に はいる こと に よって きわめて よく ゲンテイ された もの と なった。 ジッタイテキ な もの は カンケイ に ブンカイ される こと に よって もっとも ゲンミツ に ゲンテイ された もの と なった。 この ゲンテイ された セカイ に たいして イゼン の セカイ が むしろ ムゲンテイ で ある と いわねば ならぬ で あろう。 しかしながら それ にも かかわらず コンニチ の セカイ は ムゲンテイ で ある。 カンケイテキ ないし カンスウテキ には ゲンテイ されて いる に して も、 あるいは むしろ そのよう に ゲンテイ されつくした ケッカ、 カタチ と して は かえって ムゲンテイ な もの に なって いる。 この ムゲンテイ が じつは トクテイ の ゲンテイ の シカタ の ハッタツ した ケッカ しょうじた もの で ある ところ に、 ゲンダイジン の ムセイカク と いわれる もの の トクシュ な フクザツサ が ある。
 コンニチ の ニンゲン の サイダイ の モンダイ は、 かよう に カタチ の ない もの から いかに して カタチ を つくる か と いう こと で ある。 この モンダイ は ナイザイテキ な タチバ に おいて は カイケツ されない。 なぜなら この ムテイケイ な ジョウタイ は ゲンテイ の ハッタツ しつくした ケッカ しょうじた もの で ある から。 そこ に ゲンダイ の あらゆる チョウエツテキ な カンガエカタ の イギ が ある。 ケイセイ は キョム から の ケイセイ、 カガク を こえた ゲイジュツテキ とも いう べき ケイセイ で なければ ならぬ。 イッシュ ゲイジュツテキ な セカイカン、 しかも カンショウテキ で なくて ケイセイテキ な セカイカン が シハイテキ に なる に いたる まで は、 ゲンダイ には キュウサイ が ない と いえる かも しれない。

 ゲンダイ の コンラン と いわれる もの に おいて、 あらゆる もの が コンゴウ しつつ ある。 タイリツ する もの が ソウゴウ されて ゆく と いう より も むしろ タイリツ する もの が コンゴウ されて ゆく と いう の が ジッサイ に ちかい。 この コンゴウ から あたらしい カタチ が でて くる で あろう。 カタチ の セイセイ は ソウゴウ の ベンショウホウ で ある より も コンゴウ の ベンショウホウ で ある。 ワタシ の いう コウソウリョク の ロンリ は コンゴウ の ベンショウホウ と して トクチョウ-づけられねば ならぬ で あろう。 コンゴウ は フテイ な もの の ケツゴウ で あり、 その フテイ な もの の フテイセイ の コンキョ は キョム の ソンザイ で ある。 あらゆる もの は キョム に おいて あり、 かつ それぞれ トクシュテキ に キョム を いだいて いる ところ から コンゴウ が かんがえられる。 キョム は イッパンテキ な ソンザイ を ゆうする のみ で なく、 ソレゾレ に おいて トクシュテキ な ソンザイ を ゆうする。 コンゴウ の ベンショウホウ は キョム から の ケイセイ で なければ ならぬ。 カオス から コスモス への セイセイ を といた コダイジン の テツガク には ふかい シンリ が ふくまれて いる。 ジュウヨウ なの は その イミ を どこまでも シュタイテキ に ハアク する こと で ある。

 コドク に ついて

「この ムゲン の クウカン の エイエン の チンモク は ワタシ を センリツ させる」 (パスカル)。

 コドク が おそろしい の は、 コドク ソノモノ の ため で なく、 むしろ コドク の ジョウケン に よって で ある。 あたかも、 シ が おそろしい の は、 シ ソノモノ の ため で なく、 むしろ シ の ジョウケン に よって で ある の と おなじ で ある。 しかし コドク の ジョウケン イガイ に コドク ソノモノ が ある の か。 シ の ジョウケン イガイ に シ ソノモノ が ある で あろう か。 その ジョウケン イガイ に その ジッタイ を とらえる こと の できぬ もの、 ――シ も、 コドク も、 まことに かく の ごとき もの で あろう と おもわれる。 しかも、 ジッタイセイ の ない もの は ジツザイセイ の ない もの と いえる か、 また いわねば ならない の で ある か。

 コダイ テツガク は ジッタイセイ の ない ところ に ジツザイセイ を かんがえる こと が できなかった。 したがって そこ では、 シ も、 そして コドク も、 あたかも ヤミ が ヒカリ の ケツボウ と かんがえられた よう に、 たんに ケツボウ (ステレーシス) を イミ する に すぎなかった で あろう。 しかるに キンダイジン は ジョウケン に よって シコウ する。 ジョウケン に よって シコウ する こと を おしえた の は キンダイ カガク で ある。 だから キンダイ カガク は シ の キョウフ や コドク の キョウフ の キョモウセイ を あきらか に した の で なく、 むしろ その ジツザイセイ を しめした の で ある。

 コドク と いう の は ドッキョ の こと では ない。 ドッキョ は コドク の ヒトツ の ジョウケン に すぎず、 しかも その ガイテキ な ジョウケン で ある。 むしろ ヒト は コドク を のがれる ため に ドッキョ し さえ する の で ある。 イントンシャ と いう もの は しばしば かよう な ヒト で ある。

 コドク は ヤマ に なく、 マチ に ある。 ヒトリ の ニンゲン に ある の で なく、 オオゼイ の ニンゲン の 「アイダ」 に ある の で ある。 コドク は 「アイダ」 に ある もの と して クウカン の ごとき もの で ある。 「シンクウ の キョウフ」 ――それ は ブッシツ の もの で なくて ニンゲン の もの で ある。

 コドク は ウチ に とじこもる こと では ない。 コドク を かんじる とき、 こころみに、 ジブン の テ を のばして、 じっと みつめよ。 コドク の カンジ は キュウ に せまって くる で あろう。

 コドク を あじわう ため に、 セイヨウジン なら マチ に でる で あろう。 ところが トウヨウジン は シゼン の ナカ に はいった。 カレラ には シゼン が シャカイ の ごとき もの で あった の で ある。 トウヨウジン に シャカイ イシキ が ない と いう の は、 カレラ には ニンゲン と シゼン と が タイリツテキ に かんがえられない ため で ある。

 トウヨウジン の セカイ は ハクメイ の セカイ で ある。 しかるに セイヨウジン の セカイ は ヒル の セカイ と ヨル の セカイ で ある。 ヒル と ヨル との タイリツ の ない ところ が ハクメイ で ある。 ハクメイ の サビシサ は ヒル の サビシサ とも ヨル の サビシサ とも セイシツテキ に ちがって いる。

 コドク には ビテキ な ユウワク が ある。 コドク には アジワイ が ある。 もし ダレ も が コドク を このむ と したら、 この アジワイ の ため で ある。 コドク の ビテキ な ユウワク は オンナ の コ も しって いる。 コドク の より たかい リンリテキ イギ に たっする こと が モンダイ で ある の だ。
 その イッショウ が コドク の リンリテキ イギ の タンキュウ で あった と いいうる キェルケゴール で さえ、 その ビテキ な ユウワク に しばしば まけて いる の で ある。

 カンジョウ は シュカンテキ で チセイ は キャッカンテキ で ある と いう フツウ の ケンカイ には ゴビュウ が ある。 むしろ その ギャク が いっそう シンリ に ちかい。 カンジョウ は オオク の バアイ キャッカンテキ な もの、 シャカイカ された もの で あり、 チセイ こそ シュカンテキ な もの、 ジンカクテキ な もの で ある。 しんに シュカンテキ な カンジョウ は チセイテキ で ある。 コドク は カンジョウ で なく チセイ に ぞくする の で なければ ならぬ。

 シンリ と キャッカンセイ、 したがって ヒ-ジンカクセイ と を ドウイツシ する テツガクテキ ケンカイ ほど ユウガイ な もの は ない。 かよう な ケンカイ は シンリ の ナイメンセイ のみ で なく、 また とくに その ヒョウゲンセイ を リカイ しない の で ある。

 いかなる タイショウ も ワタシ を して コドク を こえさせる こと は できぬ。 コドク に おいて ワタシ は タイショウ の セカイ を ゼンタイ と して こえて いる の で ある。
 コドク で ある とき、 ワレワレ は モノ から ほろぼされる こと は ない。 ワレワレ が モノ に おいて ほろぶ の は コドク を しらない とき で ある。

 モノ が しんに ヒョウゲンテキ な もの と して ワレワレ に せまる の は コドク に おいて で ある。 そして ワレワレ が コドク を こえる こと が できる の は その ヨビカケ に こたえる ジコ の ヒョウゲン カツドウ に おいて の ホカ ない。 アウグスティヌス は、 ショクブツ は ニンゲン から みられる こと を もとめて おり、 みられる こと が それ に とって キュウサイ で ある と いった が、 ヒョウゲン する こと は モノ を すくう こと で あり、 モノ を すくう こと に よって ジコ を すくう こと で ある。 かよう に して、 コドク は もっとも ふかい アイ に ねざして いる。 そこ に コドク の ジツザイセイ が ある。

 シット に ついて

 もし ワタシ に ニンゲン の セイ の ゼン で ある こと を うたがわせる もの が ある と したら、 それ は ニンゲン の ココロ に おける シット の ソンザイ で ある。 シット こそ ベーコン が いった よう に アクマ に もっとも ふさわしい ゾクセイ で ある。 なぜなら シット は コウカツ に、 ヤミ の ナカ で、 よい もの を がいする こと に むかって はたらく の が イッパン で ある から。

 どのよう な ジョウネン でも、 テンシン ランマン に あらわれる バアイ、 つねに ある ウツクシサ を もって いる。 しかるに シット には テンシン ランマン と いう こと が ない。 アイ と シット とは、 シュジュ の テン で にた ところ が ある が、 まず この イッテン で まったく ちがって いる。 すなわち アイ は ジュンスイ で ありうる に はんして、 シット は つねに インケン で ある。 それ は コドモ の シット に おいて すら そう で ある。

 アイ と シット とは あらゆる ジョウネン の ウチ もっとも ジュッサクテキ で ある。 それら は タ の ジョウネン に ひして はるか に ジゾクテキ な セイシツ の もの で あり、 したがって そこ に リチ の ジュッサク が はいって くる こと が できる。 また ギャク に リチ の ジュッサク に よって それら の ジョウネン は ジゾクセイ を ます の で ある。 いかなる ジョウネン も アイ と シット と ほど ニンゲン を くるしめない、 なぜなら タ の ジョウネン は それほど ジゾクテキ で ない から。 この クルシミ の ナカ から あらゆる ジュッサク が うまれて くる。 しかも アイ は シット の コンニュウ に よって ジュッサクテキ に なる こと が いかに おおい か。 だから ジュッサクテキ な アイ に よって の ホカ たのしまない モノ は、 アイテ に シット を おこさせる よう な シュダン を もちいる。

 シット は ヘイゼイ は 「かんがえ」 ない ニンゲン にも 「かんがえ」 させる。

 アイ と シット との ツヨサ は、 それら が はげしく ソウゾウリョク を はたらかせる こと に もとづいて いる。 ソウゾウリョク は マジュツテキ な もの で ある。 ヒト は ジブン の ソウゾウリョク で つくりだした もの に たいして シット する。 アイ と シット と が ジュッサクテキ で ある と いう こと も、 それら が ソウゾウリョク を かりたて、 ソウゾウリョク に かりたてられて うごく ところ から しょうずる。 しかも シット に おいて ソウゾウリョク が はたらく の は その ナカ に コンニュウ して いる なんらか の アイ に よって で ある。 シット の ソコ に アイ が なく、 アイ の ウチ に アクマ が いない と、 ダレ が しろう か。

 シット は ジブン より も たかい チイ に ある モノ、 ジブン より も コウフク な ジョウタイ に ある モノ に たいして おこる。 だが その サイ が ゼッタイテキ で なく、 ジブン も カレ の よう に なりうる と かんがえられる こと が ヒツヨウ で ある。 まったく イシツテキ で なく、 キョウツウ な もの が なければ ならぬ。 しかも シット は、 シット される モノ の イチ に ジブン を たかめよう と する こと なく、 むしろ カレ を ジブン の イチ に ひくめよう と する の が フツウ で ある。 シット が より たかい もの を めざして いる よう に みえる の は ヒョウメンジョウ の こと で ある、 それ は ホンシツテキ には ヘイキンテキ な もの に むかって いる の で ある。 この テン、 アイ が その ホンセイ に おいて つねに より たかい もの に あこがれる の と ことなって いる。
 かよう に して シット は、 アイ と あいはんする セイシツ の もの と して、 ニンゲンテキ な アイ に ナニ か おぎなわねば ならぬ もの が ある か の ごとく、 たえず その ナカ に カンショウ して くる の で ある。

 おなじ ショクギョウ の モノ が シン の トモダチ に なる こと は ちがった ショクギョウ の モノ の アイダ に おいて より も はるか に コンナン で ある。

 シット は セイシツテキ な もの の ウエ に はたらく の で なく、 リョウテキ な もの の ウエ に はたらく の で ある。 トクシュテキ な もの、 コセイテキ な もの は、 シット の タイショウ とは ならぬ。 シット は タ を コセイ と して みとめる こと、 ジブン を コセイ と して リカイ する こと を しらない。 イッパンテキ な もの に かんして ヒト は シット する の で ある。 これ に はんして アイ の タイショウ と なる の は イッパンテキ な もの で なくて トクシュテキ な もの、 コセイテキ な もの で ある。

 シット は ココロ の おくふかく もえる の が ツネ で ある にも かかわらず、 なんら ナイメンセイ を しらぬ。

 シット とは スベテ の ニンゲン が カミ の マエ に おいて は ビョウドウ で ある こと を しらぬ モノ の ニンゲン の セカイ に おいて ヘイキンカ を もとめる ケイコウ で ある。

 シット は であるいて、 イエ を まもらない。 それ は ジブン に とどまらない で たえず ソト へ でて ゆく コウキシン の ヒトツ の おおきな ゲンイン に なって いる。 シット の まじらない ムジャキ な コウキシン と いう もの は いかに まれ で ある か。

 ヒトツ の ジョウネン は チセイ に よって より も タ の ジョウネン に よって いっそう よく せいする こと が できる と いう の は、 イッパンテキ な シンリ で ある。 エイユウ は シットテキ で ない と いう コトバ が もし ホント で ある と したら、 カレラ に おいて は コウミョウシン とか キョウソウシン とか いう タ の ジョウネン が シット より も つよく、 そして ジュウヨウ な こと は、 いっそう ジゾクテキ な チカラ に なって いる と いう こと で ある。

 コウミョウシン や キョウソウシン は しばしば シット と まちがえられる。 しかし リョウシャ の サイ は メイリョウ で ある。 まず コウミョウシン や キョウソウシン は コウキョウテキ な バショ を しって いる に はんし、 シット は それ を しらない。 シット は スベテ の コウジ を シジ と かいして かんがえる。 シット が コウミョウシン や キョウソウシン に テンカ される こと は、 その ギャク の バアイ より も はるか に コンナン で ある。

 シット は つねに タボウ で ある。 シット の ごとく タボウ で、 しかも フセイサンテキ な ジョウネン の ソンザイ を ワタシ は しらない。

 もし ムジャキ な ココロ と いう もの を テイギ しよう と する なら、 シットテキ で ない ココロ と いう の が ナニ より も テキトウ で あろう。

 ジシン が ない こと から シット が おこる と いう の は ただしい。 もっとも なんら の ジシン も なければ シット の オコリヨウ も ない わけ で ある が。 しかし シット は その タイショウ に おいて ジコ が シット して いる とうの テン を さけて タ の テン に ふれる の が ツネ で ある。 シット は サジュツテキ で ある。

 シットシン を なくする ため に、 ジシン を もて と いわれる。 だが ジシン は いかに して しょうずる の で ある か。 ジブン で モノ を つくる こと に よって。 シット から は ナニモノ も つくられない。 ニンゲン は モノ を つくる こと に よって ジコ を つくり、 かくて コセイ に なる。 コセイテキ な ニンゲン ほど シットテキ で ない。 コセイ を はなれて コウフク が ソンザイ しない こと は この ジジツ から も リカイ される で あろう。

 セイコウ に ついて

 コンニチ の リンリガク の ほとんど スベテ に おいて おきわすれられた フタツ の もっとも いちじるしい もの は、 コウフク と セイコウ と いう もの で ある。 しかも それ は あいはんする イミ に おいて そのよう に なって いる の で ある。 すなわち コウフク は もはや ゲンダイテキ な もの で ない ゆえ に。 そして セイコウ は あまり に ゲンダイテキ な もの で ある ゆえ に。
 コダイジン や チュウセイテキ ニンゲン の モラル の ウチ には、 ワレワレ の イミ に おける セイコウ と いう もの は どこ にも そんしない よう に おもう。 カレラ の モラル の チュウシン は コウフク で あった の に はんして、 ゲンダイジン の それ は セイコウ で ある と いって よい で あろう。 セイコウ する と いう こと が ヒトビト の おも な モンダイ と なる よう に なった とき、 コウフク と いう もの は もはや ヒトビト の ふかい カンシン で なくなった。

 セイコウ の モラル が キンダイ に トクチョウテキ な もの で ある こと は、 シンポ の カンネン が キンダイ に トクチョウテキ な もの で ある の に にて いる で あろう。 じつは リョウシャ の アイダ に ミッセツ な カンケイ が ある の で ある。 キンダイ ケイモウ シュギ の リンリ に おける コウフクロン は コウフク の モラル から セイコウ の モラル への スイイ を カノウ に した。 セイコウ と いう もの は、 シンポ の カンネン と おなじく、 チョクセンテキ な コウジョウ と して かんがえられる。 しかるに コウフク には、 ほんらい、 シンポ と いう もの は ない。

 チュウヨウ は ヒトツ の シュヨウ な トク で ある のみ で なく、 むしろ あらゆる トク の コンポンテキ な カタチ で ある と かんがえられて きた。 この カンテン を やぶった ところ に セイコウ の モラル の キンダイテキ な アタラシサ が ある。

 セイコウ の モラル は およそ ヒ-シュウキョウテキ な もの で あり、 キンダイ の ヒ-シュウキョウテキ な セイシン に ソウオウ して いる。

 セイコウ と コウフク と を、 フセイコウ と フコウ と を ドウイツシ する よう に なって イライ、 ニンゲン は シン の コウフク が ナン で ある か を リカイ しえなく なった。 ジブン の フコウ を フセイコウ と して かんがえて いる ニンゲン こそ、 まことに あわれむ べき で ある。

 タニン の コウフク を シット する モノ は、 コウフク を セイコウ と おなじ に みて いる バアイ が おおい。 コウフク は カクジン の もの、 ジンカクテキ な、 セイシツテキ な もの で ある が、 セイコウ は イッパンテキ な もの、 リョウテキ に かんがえられうる もの で ある。 だから セイコウ は、 その ホンセイジョウ、 タニン の シット を ともないやすい。

 コウフク が ソンザイ に かかわる の に はんして、 セイコウ は カテイ に かかわって いる。 だから、 タニン から は カレ の セイコウ と みられる こと に たいして、 ジブン では ジブン に カカワリ の ない こと で ある か の よう に ムカンシン で いる ニンゲン が ある。 かよう な ニンゲン は ニジュウ に タニン から シット される オソレ が あろう。

 Streber―― この ドイツ-ゴ で もっとも テキセツ に あらわされる シュルイ の セイコウ シュギシャ こそ、 ゾクブツ-チュウ の ゾクブツ で ある。 タ の シュルイ の ゾクブツ は ときとして キマグレ に ゾクブツ で ある こと を やめる。 しかるに この ドリョクカ-ガタ の セイコウ シュギシャ は、 けっして キドウ を はずす こと が ない ゆえ に、 それだけ ゾクブツ と して カンゼン で ある。
 シュトレーバー と いう の は、 いきる こと が そもそも ボウケン で ある と いう ケイジジョウガクテキ シンリ を いかなる バアイ にも リカイ する こと の ない ニンゲン で ある。 ソウゾウリョク の ケツボウ が この ドリョクカ-ガタ を トクチョウ-づけて いる。

 セイコウ も ジンセイ に ホンシツテキ な ボウケン に ぞくする と いう こと を リカイ する とき、 セイコウ シュギ は イミ を なさなく なる で あろう。 セイコウ を ボウケン の ケンチ から リカイ する か、 ボウケン を セイコウ の ケンチ から リカイ する か は、 ホンシツテキ に ちがった こと で ある。 セイコウ シュギ は アト の バアイ で あり、 そこ には シン の ボウケン は ない。 ジンセイ は カケ で ある と いう コトバ ほど カッテ に リカイ されて ランヨウ されて いる もの は ない。

 イッシュ の スポーツ と して セイコウ を ツイキュウ する モノ は ケンゼン で ある。

 ジュンスイ な コウフク は カクジン に おいて オリジナル な もの で ある。 しかし セイコウ は そう では ない。 エピゴーネントゥム (ツイズイシャ-フウ) は オオク の バアイ セイコウ シュギ と むすびついて いる。

 キンダイ の セイコウ シュギシャ は カタ と して は メイリョウ で ある が コセイ では ない。
 コダイ に おいて は、 コジン イシキ は ハッタツ して いなかった が、 それ だけ に カタテキ な ニンゲン が コセイテキ で ある と いう こと が あった。 コジン イシキ の ハッタツ した ゲンダイ に おいて は かえって、 カタテキ な ニンゲン は リョウテキ な ヘイキンテキ な ニンゲン で あって コセイテキ で ない と いう こと が しょうじた。 ゲンダイ ブンカ の ヒゲキ、 あるいは むしろ キゲキ は、 カタ と コセイ との ブンリ に ある。 そこ に コセイ と して は カタテキ な ツヨサ が なく、 カタ と して は コセイテキ な アザヤカサ の ない ニンゲン が できた の で ある。

 セイコウ の モラル は オプティミズム に ささえられて いる。 それ が ジンセイ に たいする イギ は しゅとして この オプティミズム の イギ で ある。 オプティミズム の コンテイ には ゴウリ シュギ あるいは シュチ シュギ が なければ ならぬ。 しかるに オプティミズム が この ホウコウ に センレン された バアイ、 なお なんらか セイコウ シュギ と いう もの が のこりうる で あろう か。
 セイコウ シュギシャ が ヒゴウリ シュギシャ で ある バアイ、 カレ は おそる べき で ある。

 キンダイテキ な ボウケンシン と、 ゴウリ シュギ と、 オプティミズム と、 シンポ の カンネン との コンゴウ から うまれた サイコウ の もの は キギョウカ-テキ セイシン で ある。 コダイ の ニンゲン リソウ が ケンジャ で あり、 チュウセイ の それ が セイジャ で あった よう に、 キンダイ の それ は キギョウカ で ある と いいうる で あろう。 すくなくとも そのよう に かんがえらる べき オオク の リユウ が ある。 しかるに それ が イッパン には そのよう に ジュンスイ に ハアク されなかった の は キンダイ の ハイキン シュギ の ケッカ で ある。

 もし ヒト が いくらか の ケンリョク を もって いる と したら、 セイコウ シュギシャ ほど ぎょしやすい もの は ない で あろう。 ブカ を ぎょして ゆく テヂカ な ミチ は、 カレラ に リッシン シュッセ の イデオロギー を ふきこむ こと で ある。

 ワタシ は イマ ニーチェ の モラル の コンポン が セイコウ シュギ に たいする キョクタン な ハンカン に あった こと を しる の で ある。

 メイソウ に ついて

 たとえば ヒト と タイダン して いる サイチュウ に ワタシ は とつぜん だまりこむ こと が ある。 そんな とき、 ワタシ は メイソウ に ホウモン された の で ある。 メイソウ は つねに フイ の キャク で ある。 ワタシ は それ を まねく の で なく、 また まねく こと も できない。 しかし それ の くる とき には あらゆる もの にも かかわらず くる の で ある。 「これから メイソウ しよう」 など と いう こと は およそ グ にも つかぬ こと だ。 ワタシ の なしうる こと は せいぜい この フイ の キャク に たいして つねに ジュンビ を して おく こと で ある。

 シサク は シタ から のぼって ゆく もの で ある と すれば、 メイソウ は ウエ から おりて くる もの で ある。 それ は ある テンヨ の セイシツ を もって いる。 そこ に メイソウ と ミスティシズム との もっとも ふかい ムスビツキ が ある。 メイソウ は おおかれ すくなかれ ミスティック な もの で ある。

 この おもいもうけぬ キャク は あらゆる バアイ に くる こと が できる。 たんに ヒトリ しずか に いる とき のみ では ない、 まったき ケンソウ の ナカ に おいて も それ は くる の で ある。 コドク は メイソウ の ジョウケン で ある より も ケッカ で ある。 たとえば オオゼイ の チョウシュウ に むかって はなして いる とき、 ワタシ は フイ に メイソウ に おそわれる こと が ある。 その とき この フカコウ の チンニュウシャ は、 ワタシ は それ を ギャクサツ する か、 それとも それ に まったく ミ を まかせて ついて ゆく か で ある。 メイソウ には ジョウケン が ない。 ジョウケン が ない と いう こと が それ を テンヨ の もの と おもわせる コンポンテキ な リユウ で ある。

 プラトン は ソクラテス が ポティダイア の ジンエイ に おいて イッチュウヤ たちつづけて メイソウ に ふけった と いう こと を しるして いる。 その とき ソクラテス は まさに メイソウ した の で あって、 シサク した の では ない。 カレ が シサク した の は かえって カレ が イチバ に あらわれて ダレ でも を とらえて ダンロン した とき で ある。 シサク の コンポンテキ な ケイシキ は タイワ で ある。 ポティダイア の ジンエイ に おける ソクラテス と アテナイ の イチバ に おける ソクラテス―― これほど メイリョウ に メイソウ と シサク との サイ を あらわして いる もの は ない。

 シサク と メイソウ との サイ は、 ヒト は シサク の タダナカ に おいて さえ メイソウ に おちいる こと が ある と いう ジジツ に よって しめされて いる。

 メイソウ には カテイ が ない。 この テン に おいて、 それ は ホンシツテキ に カテイテキ な シサク と ことなって いる。

 スベテ の メイソウ は カンビ で ある。 この ゆえ に ヒト は メイソウ を ほっする の で あり、 その かぎり スベテ の ニンゲン は ミスティシズム に たいする シコウ を もって いる。 けれども メイソウ は ほんらい ワレワレ の イヨク に イゾン する もの では ない。

 スベテ の ミリョクテキ な シサク の ミリョク は メイソウ に、 この ミスティック な もの、 ケイジジョウガクテキ な もの に もとづいて いる。 その イミ に おいて スベテ の シソウ は、 がんらい、 あまい もの で ある。 シサク が あまい もの で ある の では ない、 あまい シサク と いう もの は なんら シサク では ない で あろう。 シサク の コンテイ に ある メイソウ が カンビ な もの なの で ある。

 メイソウ は その アマサ の ゆえ に ヒト を ユウワク する。 シン の シュウキョウ が ミスティシズム に ハンタイ する の は かよう な ユウワク の ゆえ で あろう。 メイソウ は あまい もの で ある が、 それ に ユウワク される とき、 メイソウ は もはや メイソウ では なくなり、 ムソウ か クウソウ か に なる で あろう。

 メイソウ を いかしうる もの は シサク の キビシサ で ある。 フイ の ホウモンシャ で ある メイソウ に たいする ジュンビ と いう の は シサク の ホウホウテキ クンレン を そなえて いる こと で ある。

 メイソウヘキ と いう コトバ は ムジュン で ある。 メイソウ は なんら シュウカン に なりうる セイシツ の もの では ない から で ある。 セイヘキ と なった メイソウ は なんら メイソウ では なく、 ムソウ か クウソウ か で ある。

 メイソウ の ない シソウカ は ソンザイ しない。 メイソウ は カレ に ヴィジョン を あたえる もの で あり、 ヴィジョン を もたぬ いかなる シン の シソウ も ソンザイ しない から で ある。 しんに ソウゾウテキ な シソウカ は つねに イメージ を ふまえて きびしい シサク に シュウチュウ して いる もの で ある。

 キンベン は シソウカ の シュヨウ な トク で ある。 それ に よって シソウカ と いわゆる メイソウカ あるいは ムソウカ と が クベツ される。 もちろん ヒト は キンベン だけ で シソウカ に なる こと は できぬ。 そこ には メイソウ が あたえられねば ならない から。 しかし シン の シソウカ は また たえず メイソウ の ユウワク と たたかって いる。

 ヒト は かきながら、 もしくは かく こと に よって シサク する こと が できる。 しかし メイソウ は そう では ない。 メイソウ は いわば セイシン の キュウジツ で ある。 そして セイシン には シゴト と ドウヨウ、 ヒマ が ヒツヨウ で ある。 あまり に おおく かく こと も まったく かかぬ こと も ともに セイシン に とって ユウガイ で ある。

 テツガクテキ ブンショウ に おける パウゼ と いう もの は メイソウ で ある。 シソウ の スタイル は しゅとして メイソウテキ な もの に イゾン して いる。 メイソウ が リズム で ある と すれば、 シサク は タクト で ある。

 メイソウ の アマサ の ウチ には おおかれ すくなかれ つねに エロス-テキ な もの が ある。

 シサク が メイソウ に おいて ある こと は、 セイシン が シンタイ に おいて ある の と ドウヨウ で ある。

 メイソウ は シソウテキ ニンゲン の いわば ゲンザイ で ある。 メイソウ の ウチ に、 したがって また ミスティシズム の ウチ に キュウサイ が ある と かんがえる こと は、 イタン で ある。 シュウキョウテキ ニンゲン に とって と ドウヨウ に、 シソウテキ ニンゲン に とって も、 キュウサイ は ほんらい ただ コトバ に おいて あたえられる。

 ウワサ に ついて

 ウワサ は フアンテイ な もの、 フカクテイ な もの で ある。 しかも ジブン では テ の クダシヨウ も ない もの で ある。 ワレワレ は この フアンテイ な もの、 フカクテイ な もの に とりまかれながら いきて ゆく の ホカ ない。
 しからば ウワサ は ワレワレ に とって ウンメイ の ごとき もの で あろう か。 それ は ウンメイ で ある に して は あまり に グウゼンテキ な もの で ある。 しかも この グウゼンテキ な もの は ときとして ウンメイ より も つよく ワレワレ の ソンザイ を ケッテイ する の で ある。
 もしも それ が ウンメイ で ある なら、 ワレワレ は それ を あいしなければ ならぬ。 また もし それ が ウンメイ で ある なら、 ワレワレ は それ を カイタク しなければ ならぬ。 だが ウワサ は ウンメイ では ない。 それ を ウンメイ の ごとく あいしたり カイタク したり しよう と する の は ばかげた こと で ある。 ワレワレ の すこしも コウデイ して は ならぬ この もの が、 ワレワレ の ウンメイ を さえ ケッテイ する と いう の は いかなる こと で あろう か。

 ウワサ は つねに ワレワレ の トオク に ある。 ワレワレ は その ソンザイ を さえ しらない こと が おおい。 この とおい もの が ワレワレ に かくも ミッセツ に カンケイ して くる の で ある。 しかも この カンケイ は つかむ こと の できぬ グウゼン の シュウゴウ で ある。 ワレワレ の ソンザイ は ムスウ の メ に みえぬ グウゼン の イト に よって どこ とも しれぬ ところ に つながれて いる。

 ウワサ は ヒョウバン と して ヒトツ の ヒヒョウ で ある と いう が、 その ヒヒョウ には いかなる キジュン も なく、 もしくは ムスウ の グウゼンテキ な キジュン が あり、 したがって ほんらい なんら ヒヒョウ で なく、 きわめて フアンテイ で フカクテイ で ある。 しかも この フアンテイ で フカクテイ な もの が、 ワレワレ の シャカイテキ に ソンザイ する ヒトツ の もっとも ジュウヨウ な ケイシキ なの で ある。
 ヒョウバン を ヒヒョウ の ごとく うけとり、 これ と マジメ に タイシツ しよう と する こと は、 ムダ で ある。 いったい ダレ を アイテ に しよう と いう の か。 アイテ は どこ にも いない。 もしくは いたる ところ に いる。 しかも ワレワレ は この タイシツ する こと が できない もの と たえず タイシツ させられて いる の で ある。

 ウワサ は ダレ の もの でも ない、 ウワサ されて いる トウニン の もの で さえ ない。 ウワサ は シャカイテキ な もの で ある に して も、 ゲンミツ に いう と、 シャカイ の もの でも ない。 この ジッタイ の ない もの は、 ダレ も それ を しんじない と しながら、 ダレ も それ を しんじて いる。 ウワサ は ゲンショテキ な ケイシキ に おける フィクション で ある。

 ウワサ は あらゆる ジョウネン から でて くる。 シット から、 サイギシン から、 キョウソウシン から、 コウキシン から、 -トウトウ。 ウワサ は かかる もの で ありながら ウワサ と して ソンザイ する に いたって は もはや ジョウネンテキ な もの で なくて カンネンテキ な もの で ある。 ――ネツジョウ を もって かたられた ウワサ は ウワサ と して うけとられない で あろう。―― そこ に いわば ダイ 1 ジ の カンネンカ サヨウ が ある。 ダイ 2 ジ の カンネンカ サヨウ は ウワサ から シンワ への テンカ に おいて おこなわれる。 シンワ は コウジ の フィクション で ある。

 あらゆる ウワサ の コンゲン が フアン で ある と いう の は シンリ を ふくんで いる。 ヒト は ジコ の フアン から ウワサ を つくり、 うけとり、 また つたえる。 フアン は ジョウネン の ナカ の ヒトツ の ジョウネン で なく、 むしろ あらゆる ジョウネン を うごかす もの、 ジョウネン の ジョウネン とも いう べく、 したがって また ジョウネン を こえた もの で ある。 フアン と キョム と が ヒトツ に かんがえられる の も これ に よって で ある。 キョム から うまれた もの と して ウワサ は フィクション で ある。

 ウワサ は カコ も ミライ も しらない。 ウワサ は ホンシツテキ に ゲンザイ の もの で ある。 この フドウテキ な もの に ワレワレ が ツギ から ツギ へ うつしいれる ジョウネン や ゴウリカ に よる カコウ は それ を シンワカ して ゆく ケッカ に なる。 だから ウワサ は エイゾク する に したがって シンワ に かわって ゆく。 その ウワサ が どのよう な もの で あろう と、 ワレワレ は ウワサ される こと に よって ほろびる こと は ない。 ウワサ を いつまでも ウワサ に とどめて おく こと が できる ほど ケンメイ に ムカンシン で レイセイ で ありうる ニンゲン は すくない から。

 ウワサ には ダレ も セキニンシャ と いう もの が ない。 その セキニン を ひきうけて いる もの を ワレワレ は レキシ と よんで いる。

 ウワサ と して ソンザイ する か イナ か は、 モノ が レキシテキ な もの で ある か イナ か を クベツ する ヒトツ の シルシ で ある。 シゼン の もの に して も、 ウワサ と なる バアイ、 それ は レキシ の セカイ に はいって いる の で ある。 ニンゲン の バアイ に して も、 レキシテキ ジンブツ で あれば ある ほど、 カレ は いっそう おおく ウワサ に のぼる で あろう。 レキシ は すべて かく の ごとく フアンテイ な もの の ウエ に よって いる。 もっとも ウワサ は モノ が レキシ に はいる イリグチ に すぎぬ。 タイテイ の もの は この イリグチ に たつ だけ で きえて しまう。 ホント に レキシテキ に なった もの は、 もはや ウワサ と して ソンザイ する の で なく、 むしろ シンワ と して ソンザイ する の で ある。 ウワサ から シンワ への ハンチュウ テンカ、 そこ に レキシ の カンネンカ サヨウ が ある。
 かく の ごとく レキシ は ジョウネン の ナカ から カンネン もしくは リネン を つくりだして くる。 これ は レキシ の ふかい ヒミツ に ぞくして いる。

 ウワサ は レキシ に はいる イリグチ に すぎない が、 それ は この セカイ に はいる ため に イチド は とおらねば ならぬ イリグチ で ある よう に おもわれる。 レキシテキ な もの は ウワサ と いう この あらあらしい もの、 フアンテイ な もの の ナカ から でて くる の で ある。 それ は モノ が ケッショウ する マエ に まず なければ ならぬ シントウ の ごとき もの で ある。
 レキシテキ な もの は ヒヒョウ の ナカ から より も ウワサ の ナカ から ケッテイ されて くる。 モノ が レキシテキ に なる ため には、 ヒヒョウ を ツウカ する と いう こと だけ では たりない、 ウワサ と いう さらに キマグレ な もの、 グウゼンテキ な もの、 フカクテイ な もの の ナカ を ツウカ しなければ ならぬ。

 ウワサ より も ユウリョク な ヒヒョウ と いう もの は はなはだ まれ で ある。

 レキシ は フカクテイ な もの の ナカ から でて くる。 ウワサ と いう もの は その もっとも フカクテイ な もの で ある。 しかも レキシ は もっとも カクテイテキ な もの では ない の か。

 ウワサ の モンダイ は カクリツ の モンダイ で ある。 しかも それ は ブツリテキ カクリツ とは ことなる レキシテキ カクリツ の モンダイ で ある。 ダレ が その カクリツ を ケイサン しうる か。

 ウワサ する よう に ヒヒョウ する ヒヒョウカ は おおい。 けれども ヒヒョウ を レキシテキ カクリツ の モンダイ と して とりあげる ヒヒョウカ は まれ で ある。 ワタシ の しる カギリ では ヴァレリー が それ だ。 かよう な ヒヒョウカ には スウガクシャ の よう な チセイ が ヒツヨウ で ある。 しかし いかに オオク の ヒヒョウカ が ドクダンテキ で ある か。 そこで また いかに オオク の ヒヒョウカ が、 ジブン も セケン も しんじて いる の とは ハンタイ に、 ヒヒョウテキ で ある より も ジッセンテキ で ある か。

 リコ シュギ に ついて

 イッパン に ワレワレ の セイカツ を シハイ して いる の は give and take の ゲンソク で ある。 それゆえに ジュンスイ な リコ シュギ と いう もの は まったく ソンザイ しない か あるいは きわめて まれ で ある。 いったい ダレ が とらない で ただ あたえる ばかり で ありうる ほど ユウトク あるいは むしろ ユウリョク で ありうる で あろう か。 ギャク に いったい ダレ が あたえない で ただ とる ばかり で ありうる ほど ユウリョク あるいは むしろ ユウトク で ありうる で あろう か。 ジュンスイ な エイユウ シュギ が まれ で ある よう に、 ジュンスイ な リコ シュギ も また まれ で ある。

 ワレワレ の セイカツ を シハイ して いる ギヴ アンド テイク の ゲンソク は、 タイテイ の バアイ ワレワレ は イシキ しない で それ に したがって いる。 いいかえる と、 ワレワレ は イシキテキ に の ホカ リコ シュギシャ で ある こと が できない。
 リコ シュギシャ が ブキミ に かんじられる の は、 カレ が リコテキ な ニンゲン で ある ため で ある より も、 カレ が イシキテキ な ニンゲン で ある ため で ある。 それゆえに また リコ シュギシャ を くるしめる もの は、 カレ の アイテ では なく、 カレ の ジイシキ で ある。

 リコ シュギシャ は ゲンソクテキ な ニンゲン で ある、 なぜなら カレ は イシキテキ な ニンゲン で ある から。 ――ヒト は シュウカン に よって の ホカ リコ シュギシャ で ある こと が できない。 これら フタツ の、 マエ の メイダイ とも はんし、 また ソウゴ に ムジュン する メイダイ の ウチ に、 ニンゲン の チカラ と ムリョク と が いいあらわされる。

 ワレワレ の セイカツ は イッパン に ギヴ アンド テイク の ゲンソク に したがって いる と いえば タイテイ の モノ が ナニホド か は ハンカン を おぼえる で あろう。 その こと は ジンセイ に おいて ジッショウテキ で ある こと が いかに コンナン で ある か を しめして いる。 リコ シュギ と いう もの で すら、 ほとんど スベテ が ソウゾウジョウ の もの で ある。 しかも リコ シュギシャ で ある ヨウケン は、 ソウゾウリョク を もたぬ と いう こと で ある。
 リコ シュギシャ が ヒジョウ に おもわれる の は、 カレ に アイジョウ とか ドウジョウ とか が ない ため で ある より も、 カレ に ソウゾウリョク が ない ため で ある。 そのよう に ソウゾウリョク は ジンセイ に とって コンポンテキ な もの で ある。 ニンゲン は リセイ に よって と いう より も ソウゾウリョク に よって ドウブツ から クベツ される。 アイジョウ で すら、 ソウゾウリョク なく して ナニモノ で ある か。

 アイジョウ は ソウゾウリョク に よって はかられる。

 ジッショウ シュギ は ホンシツテキ に ヒジョウ で ある。 ジッショウ シュギ の ハテ が キョム シュギ で ある の は だから トウゼン の こと で ある。
 リコ シュギシャ は チュウト ハンパ な ジッショウ シュギシャ で ある。 それとも ジカク に たっしない キョム シュギシャ で ある と いえる で あろう か。
 リコテキ で ある こと と ジッショウテキ で ある こと とは、 しばしば すりかえられる。 ヒトツ には ジコ ベンカイ の ため に、 ギャク には タニン コウゲキ の ため に。

 ワレワレ の セイカツ を シハイ する ギヴ アンド テイク の ゲンソク は、 キタイ の ゲンソク で ある。 あたえる こと には とる こと が、 とる こと には あたえる こと が、 キタイ されて いる。 それ は キタイ の ゲンソク と して、 ケッテイロンテキ な もの で なくて むしろ カクリツロンテキ な もの で ある。 このよう に ジンセイ は ガイゼンテキ な もの の ウエ に なりたって いる。 ジンセイ に おいて は ガイゼンテキ な もの が カクジツ な もの で ある。

 ワレワレ の セイカツ は キタイ の ウエ に なりたって いる。

 キタイ は タニン の コウイ を コウソク する マジュツテキ な チカラ を もって いる。 ワレワレ の コウイ は たえず その ジュバク の モト に ある。 ドウトク の コウソクリョク も そこ に キソ を もって いる。 タニン の キタイ に はんして コウイ する と いう こと は かんがえられる より も はるか に コンナン で ある。 ときには ヒトビト の キタイ に まったく はんして コウドウ する ユウキ を もたねば ならぬ。 セケン が キタイ する とおり に なろう と する ヒト は ついに ジブン を ハッケン しない で しまう こと が おおい。 シュウサイ と よばれた モノ が ヘイボン な ニンゲン で おわる の は その ヒトツ の レイ で ある。

 リコ シュギシャ は キタイ しない ニンゲン で ある、 したがって また シンヨウ しない ニンゲン で ある。 それゆえに カレ は つねに サイギシン に くるしめられる。
 ギヴ アンド テイク の ゲンソク を キタイ の ゲンソク と して で なく ダサン の ゲンソク と して かんがえる モノ が リコ シュギシャ で ある。

 ニンゲン が リコテキ で ある か イナ か は、 その ウケトリ カンジョウ を どれほど とおい ミライ に のばしうる か と いう モンダイ で ある。 この ジカンテキ な モンダイ は しかし たんなる ダサン の モンダイ で なくて、 キタイ の、 ソウゾウリョク の モンダイ で ある。

 コノヨ で えられない もの を シゴ に おいて キタイ する ヒト は シュウキョウテキ と いわれる。 これ が カント の カミ の ソンザイ の ショウメイ の ヨウヤク で ある。

 リコ シュギシャ は タ の ニンゲン が ジブン とは おなじ よう で ない こと を アンゼン に ゼンテイ して いる。 もし スベテ の ニンゲン が リコテキ で ある と した なら、 カレ の リコ シュギ も セイリツ しえない はず で ある から。 リコ シュギシャ の ゴサン は、 その サイ が ただ カンジョウ の キゲン の モンダイ で ある こと を リカイ しない ところ に ある。 そして これ は カレ に ソウゾウリョク が かけて いる と いう こと の ショウコ に ほかならない。

 リコ シュギシャ は ジブン では じゅうぶん ゴウリテキ な ニンゲン で ある と おもって いる。 その こと を カレ は コウゲン も する し、 ホコリ に さえ も して いる。 カレ は、 カレ の リチ の ゲンカイ が ソウゾウリョク の ケツボウ に ある こと を リカイ しない の で ある。

 スベテ の ニンゲン が リコテキ で ある と いう こと を ゼンテイ に した シャカイ ケイヤクセツ は、 ソウゾウリョク の ない ゴウリ シュギ の サンブツ で ある。 シャカイ の キソ は ケイヤク で なくて キタイ で ある。 シャカイ は キタイ の マジュツテキ な コウソクリョク の ウエ に たてられた タテモノ で ある。

 どのよう な リコ シュギシャ も ジコ の トクシュテキ な リエキ を イッパンテキ な リエキ と して シュチョウ する。 ――そこ から いかに オオク の リロン が つくられて いる か。―― これ に はんして アイ と シュウキョウ と に おいて は、 ヒト は かえって タンテキ に ジコ を シュチョウ する。 それら は リロン を ケイベツ する の で ある。

 リコ シュギ と いう コトバ は ほとんど つねに タニン を コウゲキ する ため に つかわれる。 シュギ と いう もの は ジブン で しょうする より も ハンタイシャ から おしつけられる もの で ある と いう こと の もっとも ニチジョウテキ な レイ が ここ に ある。

 ケンコウ に ついて

 ナニ が ジブン の ため に なり、 ナニ が ジブン の ガイ に なる か、 の ジブン ジシン の カンサツ が、 ケンコウ を たもつ サイジョウ の ブツリガク で ある と いう こと には、 ブツリガク の キソク を こえた チエ が ある。 ――ワタシ は ここ に この ベーコン の コトバ を しるす の を きんずる こと が できない。 これ は きわめて ジュウヨウ な ヨウジョウクン で ある。 しかも その コンテイ に ある の は、 ケンコウ は カクジ の もの で ある と いう、 タンジュン な、 タンジュン な ゆえ に ケイケン な と さえ いいうる シンリ で ある。

 ダレ も タニン の ミガワリ に ケンコウ に なる こと が できぬ、 また ダレ も ジブン の ミガワリ に ケンコウ に なる こと が できぬ。 ケンコウ は まったく メイメイ の もの で ある。 そして まさに その テン に おいて ビョウドウ の もの で ある。 ワタシ は そこ に ある シュウキョウテキ な もの を かんじる。 スベテ の ヨウジョウクン は そこ から シュッタツ しなければ ならぬ。

 フウサイ や キシツ や サイノウ に ついて は、 カクジン に コセイ が ある こと は ダレ も しって いる。 しかるに ケンコウ に ついて おなじ よう に、 それ が まったく コセイテキ な もの で ある こと を ダレ も リカイ して いる で あろう か。 この バアイ ヒト は ただ ジョウブ な とか よわい とか いう はなはだ イッパンテキ な ハンダン で マンゾク して いる よう に おもわれる。 ところが レンアイ や ケッコン や コウサイ に おいて コウフク と フコウ を ケッテイ する ヒトツ の もっとも ジュウヨウ な ヨウソ は、 カクジ の ケンコウ に おける きわめて コセイテキ な もの で ある。 セイリテキ シンワセイ は シンリテキ シンワセイ に おとらず ビミョウ で、 タイセツ で ある。 オオク の ニンゲン は それ に きづかない、 しかし ホンノウ が カレラ の ため に センタク を おこなって いる の で ある。
 かよう に ケンコウ は コセイテキ な もの で ある と すれば、 ケンコウ に ついて の キソク は ニンゲンテキ コセイ に かんする キソク と ことならない こと に なる で あろう。 ――すなわち まず ジコ の コセイ を ハッケン する こと、 その コセイ に チュウジツ で ある こと、 そして その コセイ を ケイセイ して ゆく こと で ある。 セイリガク の キソク と シンリガク の キソク とは おなじ で ある。 あるいは、 セイリガク の キソク は シンリガクテキ に ならねば ならず、 ギャク に シンリガク の キソク は セイリガクテキ に ならねば ならぬ。

 ヨウジョウロン の コンテイ には ゼン-シゼン テツガク が ある。 これ は イゼン、 トウヨウ に おいて も セイヨウ に おいて も、 そう で あった し、 コンニチ も また そう で なければ ならぬ。 ここ に シゼン テツガク と いう の は もちろん あの イガク や セイリガク の こと では ない。 この シゼン テツガク と キンダイ カガク との ソウイ は、 コウシャ が キュウハクカン から シュッパツ する の に はんして、 ゼンシャ は ショユウカン から シュッタツ する ところ に ある と いう こと が できる で あろう。 ハツメイ は キュウハクカン から しょうずる。 ゆえに コウシャ が ハツメイテキ で ある の に はんして、 ゼンシャ は ハッケンテキ で ある と いう こと も できる で あろう。 キンダイ イガク は ケンコウ の キュウハクカン から、 その イミ での ビョウキカン から でて きた。 しかるに イゼン の ヨウジョウロン に おいて は、 ショユウ されて いる もの と して の ケンコウ から シュッタツ して、 いかに して この シゼン の もの を ケイセイ しつつ イジ する か と いう こと が モンダイ で あった。 ケンコウ は ハツメイ させない、 ビョウキ が ハツメイ させる の で ある。

 ケンコウ の モンダイ は ニンゲンテキ シゼン の モンダイ で ある。 と いう の は、 それ は たんなる シンタイ の モンダイ では ない と いう こと で ある。 ケンコウ には シンタイ の タイソウ と ともに セイシン の タイソウ が ヒツヨウ で ある。

 ワタシ の シンタイ は ヨノナカ の もの の ウチ ワタシ の シソウ が ヘンカ する こと の できる もの で ある。 ソウゾウ の ビョウキ は ジッサイ の ビョウキ に なる こと が できる。 タ の もの に おいて は ワタシ の カテイ が モノ の チツジョ を みだす こと は ありえない のに。 ナニ より も ジブン の シンタイ に かんする キョウフ を とおざけねば ならぬ。 キョウフ は コウカ の ない ドウヨウ を しょうずる だけ で あり、 そして シアン は つねに キョウフ を ます で あろう。 ヒト は ジブン が ハメツ した と かんがえる よう に なる、 ところが いったん ナニ か キンキュウ の ヨウジ が できる と、 カレ は ジブン の セイメイ が カンゼン で ある の を みいだす と いった レイ は おおい。

 シゼン に したがえ と いう の が ケンコウホウ の コウリ で ある。 ヒツヨウ なの は、 この コトバ の イミ を ケイジジョウガクテキ な フカミ に おいて リカイ する こと で ある。 さしあたり この シゼン は イッパンテキ な もの で なくて コベツテキ な もの、 また ジコ ケイセイテキ な もの で ある。 シゼン に したがう と いう の は シゼン を モホウ する と いう こと で ある。 ――モホウ の シソウ は キンダイテキ な ハツメイ の シソウ とは ことなって いる。―― その リエキ は、 ムヨウ の フアン を のぞいて アンシン を あたえる と いう ドウトクテキ コウカ に ある。

 ケンコウ は モノ の カタチ と いう よう に チョッカンテキ グタイテキ な もの で ある。

 キンダイ イガク が ハッタツ した ノチ に おいて も、 ケンコウ の モンダイ は キュウキョク に おいて シゼン ケイジジョウガク の モンダイ で ある。 そこ に ナニ か ヘンカ が なければ ならぬ と すれば、 その ケイジジョウガク が あたらしい もの に ならねば ならぬ と いう だけ で ある。 イシャ の フヨウジョウ と いう コトワザ は、 ヨウジョウ に ついて は、 イシャ にも ケイジジョウガク が ヒツヨウ で ある こと を しめす もの に ほかならぬ。

 キャッカンテキ な もの は ケンコウ で あり、 シュカンテキ な もの は ビョウテキ で ある。 この コトバ の ウチ に ふくまれる ケイジジョウガク から、 ヒト は リッパ な ヨウジョウクン を ひきだす こと が できる で あろう。

 ケンコウ の カンネン に もっとも おおきな ヘンカ を あたえた の は キリスト-キョウ で あった。 この エイキョウ は その シュカンセイ の テツガク から しょうじた の で ある。 ケンコウ の テツガク を もとめた ニーチェ が あのよう に きびしく キリスト-キョウ を コウゲキ した の は トウゼン で ある。 けれども ニーチェ ジシン の シュカン シュギ は、 カレ が あれほど もとめた ケンコウ の テツガク に たいして ハカイテキ で ある の ホカ なかった。 ここ に チュウイ す べき こと は、 キンダイ カガク の キャッカン シュギ は キンダイ の シュカン シュギ を たんに うらがえした もの で あり、 これ と ソウセイジ で ある と いう こと で ある。 かよう に して シュカン シュギ が でて きて から、 ビョウキ の カンネン は ドクジセイ を もち、 コユウ の イミ を えて きた の で ある。 ビョウキ は ケンコウ の ケツボウ と いう より セッキョクテキ な イミ の もの と なった。

 キンダイ シュギ の ゆきついた ところ は ジンカク の ブンカイ で ある と いわれる。 しかるに それ と ともに ジュウヨウ な デキゴト は、 ケンコウ の カンネン が おなじ よう に ブンレツ して しまった と いう こと で ある。 ゲンダイジン は もはや ケンコウ の カンゼン な イメージ を もたない。 そこ に ゲンダイジン の フコウ の おおきな ゲンイン が ある。 いかに して ケンコウ の カンゼン な イメージ を とりもどす か、 これ が コンニチ の サイダイ の モンダイ の ヒトツ で ある。

「ケンコウ ソノモノ と いう もの は ない」、 と ニーチェ は いった。 これ は カガクテキ ハンダン では なく、 ニーチェ の テツガク を ヒョウメイ した もの に ほかならぬ。 「ナニ が イッパン に ビョウキ で ある か は、 イシャ の ハンダン より も カンジャ の ハンダン および ソレゾレ の ブンカケン の シハイテキ な ケンカイ に イゾン して いる」、 と カール ヤスペルス は いう。 そして カレ の かんがえる よう に、 ビョウキ や ケンコウ は ソンザイ ハンダン で なくて カチ ハンダン で ある と すれば、 それ は テツガク に ぞくする こと に なろう。 ケイケンテキ な ソンザイ ガイネン と して は ヘイキン と いう もの を もちだす ほか ない。 しかしながら ヘイキンテキ な ケンコウ と いう もの に よって は ヒト ソレゾレ に コセイテキ な ケンコウ に ついて なんら ホンシツテキ な もの を ハアク する こと が できぬ。 もし また ケンコウ は モクテキロンテキ ガイネン で ある と すれば、 その こと に よって まさに それ は カガク の ハンイ を だっする こと に なる で あろう。

 シゼン テツガク あるいは シゼン ケイジジョウガク が うしなわれた と いう こと が、 この ジダイ に かくも ケンコウ が うしなわれて いる ゲンイン で ある。 そして それ が また この カガクテキ ジダイ に、 ビョウキ に かんして かくも オオク の メイシン が ソンザイ する リユウ で ある。

 じっさい、 ケンコウ に かんする オオク の キジュツ は つねに なんらか の ケイジジョウガクテキ ゲンリ を ふくんで いる。 たとえば いう、 ヘンカ を おこない、 ハンタイ の こと を コウカン せよ、 しかし より おだやか な キョクタン に たいする コノミ を もって。 ゼッショク と ホウショク と を もちいよ、 しかし むしろ ホウショク を。 さめて いる こと と ねむる こと と を、 しかし むしろ ねむる こと を。 すわって いる こと と うごく こと と を、 しかし むしろ うごく こと を。 ――これ は ヒトツ の ケイジジョウガクテキ シコウ で ある。 また たとえば いう、 ただ ヒトツ の こと を かえる の は よく ない、 ヒトツ の こと より も オオク の こと を かえる の が より アンゼン で ある。 ――これ も ヒトツ の ケイジジョウガクテキ ゲンリ を あらわして いる。

 ケンコウ と いう の は ヘイワ と いう の と おなじ で ある。 そこ に いかに オオク の シュルイ が あり、 オオク の カチ の ソウイ が ある で あろう。

 チツジョ に ついて

 たとえば はじめて きた カセイフ に ジブン の ショサイ の ソウジ を まかせる と する。 カノジョ は ツクエ の ウエ や マワリ に ランザツ に おかれた ホン や ショルイ や ブンボウグ など を セイトン して きれい に ならべる で あろう。 そして カノジョ は マンゾク する。 ところで イマ ワタシ が ツクエ に むかって シゴト を しよう と する バアイ、 ワタシ は ナニ か ととのわない もの、 おちつかない もの を かんじ、 1 ジカン も たたない うち に、 せっかく きちんと セイトン されて いる もの を ひっくりかえし、 モト の よう に ランザツ に して しまう で あろう。
 これ は チツジョ と いう もの が ナン で ある か を しめす ヒトツ の タンジュン な バアイ で ある。 ガイケンジョウ きわめて よく セイリ されて いる もの かならずしも チツジョ の ある もの で なく、 むしろ イッケン ムチツジョ に みえる ところ に かえって チツジョ が ソンザイ する の で ある。 この バアイ チツジョ と いう もの が、 ココロ の チツジョ に カンケイ して いる こと は あきらか で ある。 どのよう な ガイテキ チツジョ も ココロ の チツジョ に ガッチ しない かぎり シン の チツジョ では ない。 ココロ の チツジョ を ドガイシ して どのよう に ガイメン の チツジョ を ととのえた に して も クウソ で ある。

 チツジョ は セイメイ あらしめる ゲンリ で ある。 そこ には つねに アタタカサ が なければ ならぬ。 ヒト は アタタカサ に よって セイメイ の ソンザイ を カンチ する。

 また チツジョ は ジュウジツ させる もの で なければ ならぬ。 たんに きりすてたり とりはらったり する だけ で チツジョ が できる もの では ない。 キョム は あきらか に チツジョ とは ハンタイ の もの で ある。

 しかし チツジョ は つねに ケイザイテキ な もの で ある。 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ゲンソク は チツジョ の ゲンソク でも ある。 これ は きわめて テヂカ な ジジツ に よって ショウメイ される。 セツヤク ――フツウ の ケイザイテキ な イミ での―― は チツジョ ソンチョウ の ヒトツ の ケイシキ で ある。 この バアイ セツヤク は おおきな キョウヨウ で ある のみ で なく、 シュウキョウテキ な ケイケン に さえ ちかづく で あろう。 ギャク に いう と、 セツヤク は チツジョ スウハイ の ヒトツ の ケイシキ で ある と いう イミ に おいて のみ リンリテキ な イミ を もって いる。 ムチツジョ は オオク の バアイ ロウヒ から くる。 それ は、 ココロ の チツジョ に かんして、 キンセン の ランピ に おいて すでに そう で ある。

 トキ の リヨウ と いう もの は チツジョ の アイ の アラワレ で ある。

 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク が ドウジ に ココロ の チツジョ の ホウソク でも ある と いう こと は、 この ケイザイ の ホウソク が じつは ビガク の ホウソク でも ある から で ある。
 ビガク の ホウソク は セイジジョウ の チツジョ に かんして さえ モハンテキ で ありうる。 「ジダイ の セイジテキ モンダイ を ビガク に よって カイケツ する」 と いう シルレル の コトバ は、 ナニ より も チツジョ の モンダイ に かんして ダトウ する で あろう。

 チシキ だけ では たりない、 ノウリョク が モンダイ で ある。 ノウリョク は ギジュツ と いいかえる こと が できる。 チツジョ は、 ココロ の チツジョ に かんして も、 キジュツ の モンダイ で ある。 この こと が リカイ される のみ で なく、 ノウリョク と して カクトク されねば ならぬ。
 サイショウ の ヒヨウ で サイダイ の コウヨウ を あげる と いう ケイザイ の ホウソク は じつは ケイザイテキ ホウソク で ある より も ギジュツテキ ホウソク で あり、 かよう な もの と して それ は ビガク の ナカ にも はいりこむ の で ある。

 プラトン の ナカ で ソクラテス は、 トク は ココロ の チツジョ で ある と いって いる。 これ より も グタイテキ で ジッショウテキ な トク の キテイ を ワタシ は しらない。 コンニチ もっとも わすれられて いる の は トク の このよう な カンガエカタ で ある。 そして トク は ココロ の チツジョ で ある と いう テイギ の ロンショウ に あたって ソクラテス が もちいた ホウホウ は、 チュウイ す べき こと に、 ケンチクジュツ、 ゾウセンジュツ-トウ、 モロモロ の ギジュツ との ヒロン で あった。 これ は ヒロン イジョウ の ジュウヨウ な イミ を もって いる こと で ある。

 ココロ と いう ジッタイセイ の ない もの に ついて いかに して ギジュツ は カノウ で ある か、 と ヒト は いう で あろう。
 ゲンダイ ブツリガク は エレクトロン の セツ イライ ブッシツ と いう もの から ブッタイセイ を うばいさった。 この セツ は ゼン-ブッシツカイ を カンゼン に ジッタイセイ の ない もの に する よう に みえる。 ワレワレ は 「ジッタイ」 の ガイネン を さけて、 それ を 「サヨウ」 の ガイネン で おきかえなければ ならぬ と いわれて いる。 スウガクテキ に キジュツ された ブッシツ は あらゆる ニチジョウテキ な シタシサ を うしなった。
 フシギ な こと は、 この ブッシツカン の ヘンカク に ソウオウ する ヘンカク が、 それ に なんら カンケイ も ない ニンゲン の ココロ の ナカ で ジュンビ され、 ジツゲン された と いう こと で ある。 ゲンダイジン の シンリ ――かならずしも ゲンソン の シンリガク を いわない―― と ゲンダイ ブツリガク との ヘイコウ を ヒヒョウテキ に あきらか に する こと は、 あたらしい リンリガク の シュッパツテン で なければ ならぬ。

 チシキジン と いう の は、 ゲンシテキ な イミ に おいて は、 モノ を つくりうる ニンゲン の こと で あった。 タ の ニンゲン の つくりえない もの を つくりうる ニンゲン が チシキジン で あった。 チシキジン の この ゲンシテキ な イミ を ワレワレ は もう イチド はっきり ワレワレ の ココロ に おもいうかべる こと が ヒツヨウ で ある と おもう。
 ホメロス の エイユウ たち は ジブン で シュコウギョウ を おこなった。 エウマイオス は ジブン で カワ を セツダン して ハキモノ を つくった と いわれ、 オデュッセウス は ヒジョウ に キヨウ な ダイク で サシモノシ で あった よう に しるされて いる。 ワレワレ に とって これ は センボウ に あたいする こと では ない で あろう か。

 ドウトク の ナカ にも シュコウギョウテキ な もの が ある。 そして これ が ドウトク の キソテキ な もの で ある。
 しかし コンナン は、 コンニチ ブッテキ ギジュツ に おいて 「ドウグ」 の ギジュツ から 「キカイ」 の ギジュツ に ヘンカ した よう な おおきな ヘンカク が、 ドウトク の リョウイキ に おいて も ヨウキュウ されて いる ところ に ある。

 つくる こと に よって しる と いう こと が タイセツ で ある。 これ が キンダイ カガク に おける ジッショウテキ セイシン で あり、 ドウトク も その イミ に おいて まったく ジッショウテキ で なければ ならぬ。

 プラトン が ココロ の チツジョ に ソウオウ して コッカ の チツジョ を かんがえた こと は キタイ な こと では ない。 この コウソウ には ふかい チエ が ふくまれて いる。
 あらゆる チツジョ の コウソウ の コンテイ には カチ タイケイ の セッテイ が なければ ならぬ。 しかるに コンニチ リュウコウ の シンチツジョロン の キソ に どのよう な カチ タイケイ が ソンザイ する で あろう か。 リンリガク で さえ コンニチ では カチ タイケイ の セッテイ を ホウテキ して しかも コウカツ にも へいぜん と して いる ジョウタイ で ある。
 ニーチェ が イッサイ の カチ の テンカン を となえて イゴ、 まだ どのよう な ショウニン された カチ タイケイ も ソンザイ しない。 それ イゴ、 シンチツジョ の セッテイ は つねに なんらか ドクサイテキ な カタチ を とらざる を えなかった。 イッサイ の カチ の テンカン と いう ニーチェ の シソウ ソノモノ が じつは キンダイ シャカイ の たどりついた カチ の アナーキー の ヒョウゲン で あった。 キンダイ デモクラシー は ナイメンテキ には いわゆる カチ の タシンロン から ムシンロン に、 すなわち キョム シュギ に おちて ゆく キケン が あった。 これ を もっとも ふかく リカイ した の が ニーチェ で あった。 そして かよう な キョム シュギ、 ナイメンテキ な アナーキー こそ ドクサイ セイジ の ジバン で ある。 もし ドクサイ を のぞまない ならば、 キョム シュギ を コクフク して ウチ から たちなおらなければ ならない。 しかるに コンニチ ワガクニ の オオク の インテリゲンチャ は ドクサイ を キョクタン に きらいながら ジブン ジシン は どうしても ニヒリズム から ダッシュツ する こと が できない で いる。

 ガイテキ チツジョ は キョウリョク に よって も つくる こと が できる。 しかし ココロ の チツジョ は そう では ない。

 ジンカク とは チツジョ で ある、 ジユウ と いう もの も チツジョ で ある。 ……かよう な こと が リカイ されねば ならぬ。 そして それ が リカイ される とき、 シュカン シュギ は フジュウブン と なり、 なんらか キャッカンテキ な もの を みとめなければ ならなく なる で あろう。 キンダイ の シュカン シュギ は チツジョ の シソウ の ソウシツ に よって キョム シュギ に おちいった。 いわゆる ム の テツガク も、 チツジョ の シソウ、 とくに また カチ タイケイ の セッテイ なし には、 その ゼッタイ シュギ の キョム シュギ と おなじ に なる キケン が おおきい。

 カンショウ に ついて

 セイシン が ナン で ある か は シンタイ に よって しられる。 ワタシ は うごきながら よろこぶ こと が できる、 ヨロコビ は ワタシ の ウンドウ を カッパツ に し さえ する で あろう。 ワタシ は うごきながら いかる こと が できる、 イカリ は ワタシ の ウンドウ を ゲキレツ に し さえ する で あろう。 しかるに カンショウ の バアイ、 ワタシ は たちどまる、 すくなくとも セイシ に ちかい ジョウタイ が ワタシ に ヒツヨウ で ある よう に おもわれる。 うごきはじめる や いなや、 カンショウ は やむ か、 もしくは タ の もの に かわって ゆく。 ゆえに ヒト を カンショウ から だっしさせよう と する には、 まず カレ を たたせ、 カレ に うごく こと を キョウヨウ する の で ある。 かく の ごとき こと が カンショウ の シンリテキ セイシツ ソノモノ を しめして いる。 ニホンジン は トクベツ に カンショウテキ で ある と いう こと が ただしい と すれば、 それ は ワレワレ の ひさしい アイダ の セイカツ ヨウシキ に カンケイ が ある と かんがえられない で あろう か。

 カンショウ の バアイ、 ワタシ は すわって ながめて いる、 たって そこ まで うごいて ゆく の では ない。 いな、 ワタシ は ホント には ながめて さえ いない で あろう。 カンショウ は、 ナニ に ついて カンショウ する に して も、 けっきょく ジブン ジシン に とどまって いる の で あって、 モノ の ナカ に はいって ゆかない。 ヒヒョウ と いい、 カイギ と いう も、 モノ の ナカ に はいって ゆかない かぎり、 イッコ の カンショウ に すぎぬ。 シン の ヒヒョウ は、 シン の カイギ は、 モノ の ナカ に はいって ゆく の で ある。

 カンショウ は アイ、 ニクシミ、 カナシミ、 -トウ、 タ の ジョウネン から クベツ されて それら と ならぶ ジョウネン の ヒトツ の シュルイ では ない。 むしろ カンショウ は あらゆる ジョウネン の とりうる ヒトツ の ケイシキ で ある。 スベテ の ジョウネン は、 もっとも ソヤ な もの から もっとも チテキ な もの に いたる まで、 カンショウ の ケイシキ に おいて ソンザイ し ないし サヨウ する こと が できる。 アイ も カンショウ と なる こと が できる し、 ニクシミ も カンショウ と なる こと が できる。 カンタン に いう と、 カンショウ は ジョウネン の ヒトツ の フヘンテキ な ケイシキ で ある。 それ が ナニ か ジッタイ の ない もの の よう に おもわれる の も、 それ が ジョウネン の ヒトツ の シュルイ で なくて ヒトツ の ソンザイ ヨウソウ で ある ため で ある。

 カンショウ は スベテ の ジョウネン の いわば ヒョウメン に ある。 かよう な もの と して それ は スベテ の ジョウネン の イリグチ で ある と ともに デグチ で ある。 まず アト の バアイ が チュウイ される。 ヒトツ の ジョウネン は その カツドウ を やめる とき、 カンショウ と して アト を ひき、 カンショウ と して おわる。 なく こと が ジョウネン を しずめる こと で ある リユウ も そこ に ある。 なく こと は はげしい ジョウネン の カツドウ を カンショウ に かえる ため の テヂカ な シュダン で ある。 しかし なく だけ では たりない で あろう。 なきくずれなければ ならぬ、 つまり セイシ が ヒツヨウ で ある。 ところで とくに カンショウテキ と いわれる ニンゲン は、 あらゆる ジョウネン に その コユウ の カツドウ を あたえない で、 ヒョウメン の イリグチ で カクサン させて しまう ニンゲン の こと で ある。 だから カンショウテキ な ニンゲン は けっして ふかい とは いわれない が ムガイ な ニンゲン で ある。

 カンショウ は ムジュン を しらない。 ヒト は アイ と ニクシミ と に ココロ が ブンレツ する と いう。 しかし それ が カンショウ に なる と、 アイ も ニクシミ も ヒトツ に とけあう。 ウンドウ は ムジュン から しょうずる と いう イミ に おいて も、 カンショウ は うごく もの とは かんがえられない で あろう。 それ は ただ ながれる、 むしろ ただ ただよう。 カンショウ は ワカイ の テヂカ な シュダン で ある。 だから また それ は しばしば シュウキョウテキ な ココロ、 くだかれた ココロ と いう もの と コンドウ される。 ワレワレ の カンショウテキ な ココロ は ブッキョウ の ムジョウカン に エイキョウ されて いる ところ が すくなく ない で あろう。 それ だけ に リョウシャ を ゲンカク に クベツ する こと が カンヨウ で ある。

 カンショウ は ただ カンショウ を よびおこす、 そう で なければ ただ きえて ゆく。

 ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって ソウゾウ する、 ないしは ハカイ する。 しかし カンショウ は そう では ない。 ジョウネン は その コユウ の チカラ に よって イマジネーション を よびおこす。 しかし カンショウ に ともなう の は ドゥリーム で しか ない。 イマジネーション は ソウゾウテキ で ありうる。 しかし ドゥリーム は そう では ない。 そこ には うごく もの と うごかぬ もの との アイダ の サイ が ある で あろう。

 カンショウテキ で ある こと が ゲイジュツテキ で ある か の よう に かんがえる の は、 ヒトツ の カンショウ で しか ない。 カンショウテキ で ある こと が シュウキョウテキ で ある か の よう に かんがえる モノ に いたって は、 さらに それ イジョウ カンショウテキ で ある と いわねば ならぬ。 シュウキョウ は もとより、 ゲイジュツ も、 カンショウ から の ダッシュツ で ある。

 メイソウ は オオク の バアイ カンショウ から でて くる、 すくなくとも カンショウ を ともない、 あるいは カンショウ に かわって ゆく。 シサク する モノ は カンショウ の ユウワク に まけて は ならぬ。
 カンショウ は シュミ に なる こと が でき、 また しばしば そう なって いる。 カンショウ は そのよう に カンミ な もの で あり、 ユウワクテキ で ある。 メイソウ が シュミ に なる の は、 それ が カンショウテキ に なる ため で ある。

 スベテ の シュミ と おなじ よう に、 カンショウ は ホンシツテキ には ただ カコ の もの の ウエ に のみ はたらく の で ある。 それ は できつつ ある もの に たいして で なく できあがった もの に たいして はたらく の で ある。 すべて すぎさった もの は カンショウテキ に うつくしい。 カンショウテキ な ニンゲン は カイコ する こと を このむ。 ヒト は ミライ に ついて カンショウ する こと が できぬ。 すくなくとも カンショウ の タイショウ で ある よう な ミライ は シン の ミライ では ない。

 カンショウ は セイサクテキ で なくて カンショウテキ で ある。 しかし ワタシ は カンショウ に よって ナニ を カンショウ する の で あろう か。 モノ の ナカ に はいらない で ワタシ は モノ を カンショウ しうる で あろう か。 カンショウ に おいて ワタシ は モノ を あじわって いる の で なく ジブン ジシン を あじわって いる の で ある。 いな、 セイカク に いう と、 ワタシ は ジブン ジシン を あじわって いる の で さえ なく、 ただ カンショウ ソノモノ を あじわって いる の で ある。
 カンショウ は シュカン シュギ で ある。 セイネン が カンショウテキ で ある の は この ジダイ が シュカンテキ な ジキ で ある ため で ある。 シュカン シュギシャ は、 どれほど ガイネンテキ あるいは ロンリテキ に よそおう とも、 ナイジツ は カンショウカ で しか ない こと が おおい。

 あらゆる ジョウネン の ウチ ヨロコビ は カンショウテキ に なる こと が もっとも すくない ジョウネン で ある。 そこ に ヨロコビ の もつ トクシュ な セッキョクセイ が ある。

 カンショウ には コセイ が ない、 それ は シン の シュカンセイ では ない から。 その イミ で カンショウ は タイシュウテキ で ある。 だから タイシュウ ブンガク と いう もの は ホンシツテキ に カンショウテキ で ある。 タイシュウ ブンガク の サッカ は カコ の ジンブツ を とりあつかう の が ツネ で ある の も、 これ に カンケイ する で あろう。 カレラ と ジュンブンガク の サッカ との サイ は、 カレラ が ゲンダイ の ジンブツ を おなじ よう に たくみ に えがく こと が できない テン に ある。 この カンタン な コトガラ の ウチ に ゲイジュツロン に おける シュジュ の ジュウヨウ な モンダイ が ふくまれて いる。

 カンショウ は タイテイ の バアイ マンネリズム に おちいって いる。

 シンタイ の ガイカン が セイシン の ジョウタイ と かならずしも イッチ しない こと は、 イッケン きわめて ガンジョウ な ニンゲン が はなはだ カンショウテキ で ある バアイ が ソンザイ する こと に よって しられる。

 タビ は ヒト を カンショウテキ に する と いう。 カレ は うごく こと に よって カンショウテキ に なる の で あろう か。 もし そう で ある と すれば、 ワタシ の サイショ の テイギ は まちがって いる こと に なる。 だが そう では ない。 タビ に おいて ヒト が カンショウテキ に なりやすい の は、 むしろ カレ が その ニチジョウ の カツドウ から ぬけだす ため で あり、 ムイ に なる ため で ある。 カンショウ は ワタシ の ウィークエンド で ある。

 コウドウテキ な ニンゲン は カンショウテキ で ない。 シソウカ は コウドウジン と して の ごとく シサク しなければ ならぬ。 キンベン が シソウカ の トク で ある と いう の は、 カレ が カンショウテキ に なる ユウワク の おおい ため で ある。

 あらゆる もの が ルテン する の を みて カンショウテキ に なる の は、 モノ を とらえて その ナカ に はいる こと の できぬ ジコ を かんじる ため で ある。 ジコ も また ルテン の ナカ に ある の を しる とき、 ワタシ は たんなる カンショウ に とどまりうる で あろう か。

 カンショウ には つねに なんらか の キョエイ が ある。

 カセツ に ついて

 シソウ が ナン で ある か は、 これ を セイカツ に たいして かんがえて みる と メイリョウ に なる で あろう。 セイカツ は ジジツ で ある、 どこまでも ケイケンテキ な もの で ある。 それ に たいして シソウ には つねに カセツテキ な ところ が ある。 カセツテキ な ところ の ない よう な シソウ は シソウ とは いわれない で あろう。 シソウ が ジュンスイ に シソウ と して もって いる チカラ は カセツ の チカラ で ある。 シソウ は その カセツ の オオイサ に したがって イダイ で ある。 もし シソウ に カセツテキ な ところ が ない と すれば、 いかに して それ は セイカツ から クベツ されうる で あろう か。 かんがえる と いう こと も それ ジシン と して は あきらか に ワレワレ の セイカツ の イチブブン で あって、 これ と ベツ の もの では ない。 しかるに その もの が なお セイカツ から クベツ される の は、 かんがえる と いう こと が ホンシツテキ には カセツテキ に かんがえる こと で ある ため で ある。
 かんがえる と いう こと は カテイテキ に かんがえる こと で ある。 カテイテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 しかるに シコウ が カテイテキ で ある の は カセツテキ に かんがえる から で ある。 すなわち カセツテキ な シコウ で あって ホウホウテキ で ある こと が できる。 カイギ に して も ホウホウテキ で ある ため には カセツ に よらねば ならぬ こと は、 デカルト の カイギ に おいて モハンテキ に しめされて いる。
 カセツテキ に かんがえる と いう こと は ロンリテキ に かんがえる と いう こと と タンジュン に おなじ では ない。 カセツ は ある イミ で ロンリ より も コンゲンテキ で あり、 ロンリ は むしろ そこ から でて くる。 ロンリ ソノモノ が ヒトツ の カセツ で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は ジコ ジシン から ロンリ を つくりだす チカラ を さえ もって いる。 ロンリ より も フカクジツ な もの から ロンリ が でて くる の で ある。 ロンリ も カセツ を つくりだす もの と かんがえられる かぎり それ ジシン カセツテキ な もの と かんがえられねば ならぬ。
 すべて カクジツ な もの は フカクジツ な もの から でて くる の で あって、 その ギャク で ない と いう こと は、 ふかく かんがう べき こと で ある。 つまり カクジツ な もの は あたえられた もの で なくて ケイセイ される もの で あり、 カセツ は この ケイセイテキ な チカラ で ある。 ニンシキ は モシャ で なくて ケイセイ で ある。 セイシン は ゲイジュツカ で あり、 カガミ では ない。

 しかし シソウ のみ が カセツテキ で あって、 ジンセイ は カセツテキ で ない の で あろう か。 ジンセイ も ある カセツテキ な もの で ある。 それ が カセツテキ で ある の は、 それ が キョム に つながる ため で ある。 カクジン は いわば ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため に うまれて いる。 いきて いる こと は、 ただ いきて いる と いう こと を ショウメイ する ため では ない で あろう、 ――そのよう な ショウメイ は およそ フヨウ で ある、―― じつに、 ヒトツ の カセツ を ショウメイ する ため で ある。 だから ジンセイ は ジッケン で ある と かんがえられる。 ――カセツ なし に ジッケン と いう もの は ありえない。―― もとより それ は、 なんでも カッテ に やって みる こと では なく、 ジブン が それ を ショウメイ する ため に うまれた コユウ の カセツ を ツイキュウ する こと で ある。

 ジンセイ が カセツテキ な もの で ある と すれば、 シソウ が ジンセイ に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される の と おなじ シカタ で、 ジンセイ が その もの に たいして カセツテキ な もの と して クベツ される ある もの が ある の で なければ ならぬ。

 カセツ が たんに ロンリテキ な もの で ない こと は、 それ が ブンガク の シコウ など の ウチ にも ある と いう こと に よって あきらか で ある。 ショウセツカ の ソウサク コウドウ は ただ ヒトスジ に カレ の カセツ を ショウメイ する こと で ある。 ジンセイ が カセツ の ショウメイ で ある と いう イミ は これ に ルイジ して いる。 カセツ は すくなくとも この バアイ たんなる シイ に ぞくする の で なく、 コウソウリョク に ぞくして いる。 それ は フィクション で ある と いう こと も できる で あろう。 カセツ は フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある。 だから それ を ショウメイ する こと が モンダイ で ある。 それ が フテイ な もの、 カノウテキ な もの で ある と いう の は たんに ロンリテキ イミ に おいて で なく、 むしろ ソンザイロンテキ イミ に おいて で ある。 いいかえる と、 それ は ニンゲン の ソンザイ が キョム を ジョウケン と する のみ で なく キョム と コンゴウ されて いる こと を イミ して いる。 したがって カセツ の ショウメイ が ソウゾウテキ ケイセイ で なければ ならぬ こと は ショウセツ に おける と おなじ で ある。 ジンセイ に おいて ジッケン と いう の は かよう な ケイセイ を いう の で ある。

 ジョウシキ を シソウ から クベツ する もっとも ジュウヨウ な トクチョウ は、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない と いう こと で ある。

 シソウ は カセツ で なくて シンネン で なければ ならぬ と いわれる かも しれない。 しかるに シソウ が シンネン で なければ ならぬ と いう こと こそ、 シソウ が カセツ で ある こと を しめす もの で ある。 ジョウシキ の バアイ には ことさら シンコウ は いらない。 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない から で ある。 ジョウシキ は すでに ある シンコウ で ある、 これ に はんして シソウ は シンネン に ならねば ならぬ。

 スベテ の シソウ-らしい シソウ は つねに キョクタン な ところ を もって いる。 なぜなら それ は カセツ の ツイキュウ で ある から。 これ に たいして ジョウシキ の もって いる おおきな トク は チュウヨウ と いう こと で ある。 しかるに シン の シソウ は コウドウ に うつす と いきる か しぬる か と いった セイシツ を もって いる。 シソウ の この キケン な セイシツ は、 コウドウジン は リカイ して いる が、 シソウ に ジュウジ する モノ に おいて は かえって わすれられて いる。 ただ イダイ な シソウカ のみ は その こと を コウドウジン より も ふかく しって いる。 ソクラテス が しょうよう と して シ に ついた の は その ため で あった で あろう。

 ゴカイ を うける こと が シソウカ の ツネ の ウンメイ の よう に なって いる の は、 ヨノナカ には カレ の シソウ が ヒトツ の カセツ で ある こと を リカイ する モノ が すくない ため で ある。 しかし その ツミ の イッパン は タイテイ の バアイ シソウカ ジシン にも ある の で あって、 カレ ジシン その シソウ が カセツテキ な もの で ある こと を わすれる の で ある。 それ は カレ の タイダ に よる こと が おおい。 タンキュウ の つづいて いる かぎり シソウ の カセツテキ セイシツ は たえず あらわ で ある。

 セッチュウ シュギ が シソウ と して ムリョク で ある の は、 そこ では カセツ の ジュンスイサ が うしなわれる ため で ある。 それ は このむ と このまない と に かかわらず ジョウシキ に ちかづく、 ジョウシキ には カセツテキ な ところ が ない。

 カセツ と いう シソウ は キンダイ カガク の もたらした おそらく サイダイ の シソウ で ある。 キンダイ カガク の ジッショウセイ に たいする ゴカイ は、 その ナカ に ふくまれる カセツ の セイシン を まったく みのがした か、 ただしく ハアク しなかった ところ から しょうじた。 かよう に して ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちいらねば ならなかった。 カセツ の セイシン を しらない ならば、 ジッショウ シュギ は キョム シュギ に おちて ゆく の ホカ ない。

 ギゼン に ついて

「ニンゲン は うまれつき ウソツキ で ある」、 と ラ ブリュイエール は いった。 「シンリ は タンジュン で あり、 そして ニンゲン は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 シンリ は ニンゲン に ぞくしない、 それ は いわば できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 テン から くる。 そして ニンゲン は ジブン ジシン の サクヒン、 ツクリゴト と オトギバナシ の ホカ あいしない」 ニンゲン が うまれつき ウソツキ で ある と いう の は、 キョエイ が カレ の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある ため で ある。 そこで カレ は けばけばしい こと、 かざりたてる こと を このむ。 キョエイ は その ジッタイ に したがって いう と キョム で ある。 だから ニンゲン は ツクリゴト や オトギバナシ を つくる の で あり、 そのよう な ジブン ジシン の サクヒン を あいする の で ある。 シンリ は ニンゲン の シゴト では ない。 それ は できあがって、 その あらゆる カンゼンセイ に おいて、 ニンゲン とは カンケイ なく、 そこ に ある もの で ある。

 その ホンセイ に おいて キョエイテキ で ある ニンゲン は ギゼンテキ で ある。 シンリ とは ベツ に ゼン が ある の で ない よう に、 キョエイ とは ベツ に ギゼン が ある の では ない。 ゼン が シンリ と ヒトツ の もの で ある こと を リカイ した モノ で あって ギゼン が ナン で ある か を リカイ する こと が できる。 キョエイ が ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる よう に、 ギゼン も ジンセイ に ジャッカン の コウヨウ を もって いる。 ギゼン が キョエイ と ホンシツテキ に おなじ もの で ある こと を リカイ しない モノ は、 ギゼン に たいする ハンカン から と しょうして ジブン ジシン ヒトツ の キョエイ の トリコ に なって いる。 ギゼン に たいして ギアク と いう ミョウ な コトバ で よばれる もの が それ で ある。 その ギアク と いう もの こそ あきらか に ニンゲン の おぼつかない キョエイ では ない か。 その もの は ギゼン が キョエイ に ほかならぬ こと を タメン から メイリョウ に する の で ある。 かよう な ギアクカ の トクチョウ は カンショウテキ で ある と いう こと で ある。 かつて ワタシ は ギアクカ と しょうする モノ で カンショウカ で ない よう な ニンゲン を みた こと が ない。 ギゼン に ハンカン を かんじる カレ の モラル も センチメンタリズム で しか ない。 ギアクカ は とかく ジブン で ソウゾウ して いる よう に ふかい ニンゲン では ない。 その カレ の ソウゾウ が また ヒトツ の センチメンタリズム に ぞくして いる。 もし カレ が ムガイ な ニンゲン で ある と した なら、 それ は イッパン に カンショウテキ な ニンゲン は ふかく は ない が ムガイ で ある と いう こと に よる の で ある。

 ヒト は ただ タ の ニンゲン に たいする カンケイ に おいて のみ ギゼンテキ に なる と かんがえる の は まちがって いる。 ギゼン は キョエイ で あり、 キョエイ の ジッタイ は キョム で ある、 そして キョム は ニンゲン の ソンザイ ソノモノ で ある。 あらゆる トク が ほんらい ジコ に おける もの で ある よう に、 あらゆる アクトク も また ほんらい ジコ に おける もの で ある。 その ジコ を わすれて、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ を のみ アイテ に かんがえる ところ から ギゼンシャ と いう もの が しょうじる。 それだから ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき こと が リキセツ される よう に なって イライ、 いかに オオク の ギゼンシャ が しょうじた で あろう か。 あるいは むしろ ドウトク の シャカイセイ と いう が ごとき リロン は ゲンダイ に トクチョウテキ な ギゼン を かばう ため に ことさら のべられて いる よう に さえ みえる の で ある。
 ワレワレ の ダレ が ギゼンテキ で ない で あろう か。 キョエイ は ニンゲン の ソンザイ の イッパンテキ セイシツ で ある。 ギゼンシャ が おそろしい の は、 カレ が ギゼンテキ で ある ため で ある と いう より も、 カレ が イシキテキ な ニンゲン で ある ため で ある。 しかし カレ が イシキ して いる の は ジコ で なく、 キョム でも なく、 ただ タ の ニンゲン、 シャカイ と いう もの で ある。

 キョム に ねざす ジンセイ は フィクショナル な もの で ある。 ニンゲン の ドウトク も また フィクショナル な もの で ある。 それだから ギゼン も ソンザイ しうる の で あり、 ジャッカン の コウヨウ を さえ もちうる の で ある。 しかるに フィクショナル な もの は、 それ に とどまる こと なく、 その ジツザイセイ が ショウメイ されねば ならぬ。 ギゼンシャ と そう で ない ニンゲン との クベツ は、 その ショウメイ の セイイ と ネツジョウ を もって いる か どう か に ある。 ジンセイ に おいて ショウメイ する と いう こと は ケイセイ する こと で あり、 ケイセイ する と いう こと は ナイブ と ガイブ と が ヒトツ に なる こと で ある。 ところが ギゼンシャ に あって は ナイブ と ガイブ と が ベツ で ある。 ギゼンシャ には ソウゾウ と いう もの が ない。

 キョゲン の ソンザイ する こと が カノウ で ある の は、 あらゆる ヒョウゲン が シンリ と して うけとられる セイシツ を それ ジシン に おいて もって いる ため で ある。 モノ は ヒョウゲン される と ワレワレ に ムカンケイ に なる。 ヒョウゲン と いう もの は そのよう に おそろしい もの で ある。 コイ を する ニンゲン は コトバ と いう もの、 ヒョウゲン と いう もの が いかに おそろしい もの で ある か を かんがえて おののいて いる。 コンニチ どれ だけ の チョサクカ が ヒョウゲン の オソロシサ を ホント に リカイ して いる か。

 たえず タ の ヒト を アイテ に イシキ して いる ギゼンシャ が アユテキ で ない こと は まれ で ある。 ギゼン が タ の ヒト を ハメツ させる の は、 ギゼン ソノモノ に よって より も、 その ウチ に ふくまれる アユ に よって で ある。 ギゼンシャ と そう で ない モノ との クベツ は、 アユテキ で ある か どう か に ある と いう こと が できる で あろう。 ヒト に おもねる こと は まちがった こと を いう より も はるか に わるい。 コウシャ は タニン を フハイ させ は しない が、 ゼンシャ は タニン を フハイ させ、 その ココロ を かどわかして シンリ の ニンシキ に たいして ムノウリョク に する の で ある。 ウソ つく こと で さえ も が おもねる こと より も ドウトクテキ に まさって いる。 キョゲン の ガイ で さえ も が しゅとして その ウチ に コンニュウ する アユ に よる の で ある。 シンリ は タンジュン で ソッチョク で ある。 しかるに その ウラ は セン の ソウボウ を そなえて いる。 ギゼン が おもねる ため に とる スガタ も また ムゲン で ある。

 タショウ とも ケンリョク を ゆうする チイ に ある モノ に もっとも ヒツヨウ な トク は、 おもねる モノ と ジュンシン な ニンゲン と を ヒトメ で シキベツ する チカラ で ある。 これ は ちいさい こと では ない。 もし カレ が この トク を もって いる なら、 カレ は あらゆる タ の トク を もって いる と みとめて も よい で あろう。

「よく かくれる モノ は よく いきる」 と いう コトバ には、 セイカツ に おける ふかい チエ が ふくまれて いる。 かくれる と いう の は ギゼン でも ギアク でも ない、 かえって シゼン の まま に いきる こと で ある。 シゼン の まま に いきる こと が かくれる と いう こと で ある ほど、 ヨノナカ は キョエイテキ で ある と いう こと を しっかり と みぬいて いきる こと で ある。

 ゲンダイ の ドウトクテキ タイハイ に トクチョウテキ な こと は、 ギゼン が その タイハイ の フヘンテキ な ケイシキ で ある と いう こと で ある。 これ は タイハイ の あたらしい ケイシキ で ある。 タイハイ と いう の は フツウ に カタチ が くずれて ゆく こと で ある が、 この バアイ ヒョウメン の カタチ は まことに よく ととのって いる。 そして その カタチ は けっして ふるい もの では なく まったく あたらしい もの で さえ ある。 しかも その カタチ の オク には なんら の セイメイ も ない、 カタチ が あって も ココロ は その カタチ に ささえられて いる の で なく、 キョム で ある。 これ が ゲンダイ の キョム シュギ の セイカク で ある。

 ゴラク に ついて

 セイカツ を たのしむ こと を しらねば ならぬ。 「セイカツジュツ」 と いう の は それ イガイ の もの で ない。 それ は ギジュツ で あり、 トク で ある。 どこまでも モノ の ナカ に いて しかも モノ に たいして ジリツテキ で ある と いう こと が あらゆる ギジュツ の ホンシツ で ある。 セイカツ の ギジュツ も ドウヨウ で ある。 どこまでも セイカツ の ナカ に いて しかも セイカツ を こえる こと に よって セイカツ を たのしむ と いう こと は カノウ に なる。

 ゴラク と いう カンネン は おそらく キンダイテキ な カンネン で ある。 それ は キカイ ギジュツ の ジダイ の サンブツ で あり、 この ジダイ の あらゆる トクチョウ を そなえて いる。 ゴラク と いう もの は セイカツ を たのしむ こと を しらなく なった ニンゲン が その カワリ に かんがえだした もの で ある。 それ は コウフク に たいする キンダイテキ な ダイヨウヒン で ある。 コウフク に ついて ホント に かんがえる こと を しらない キンダイジン は ゴラク に ついて かんがえる。

 ゴラク と いう もの は、 カンタン に テイギ する と、 タ の シカタ に おける セイカツ で ある。 この タ とは ナン で ある か が モンダイ で ある。 この タ とは がんらい シュウキョウテキ な もの を イミ して いた。 したがって ニンゲン に とって ゴラク は マツリ と して のみ カノウ で あった。
 かよう な カンネン が うしなわれた とき、 ゴラク は ただ たんに、 はたらいて いる ジカン に たいする あそんで いる ジカン、 マジメ な カツドウ に たいする キョウラクテキ な カツドウ、 つまり 「セイカツ」 とは ベツ の ある もの と かんがえられる よう に なった。 タノシミ は セイカツ ソノモノ の ウチ に なく、 セイカツ の タ の もの すなわち ゴラク の ウチ に ある と かんがえられる。 ヒトツ の セイカツ に ほかならぬ ゴラク が セイカツ と タイリツ させられる。 セイカツ の ブンレツ から ゴラク の カンネン が しょうじた。 ゴラク を もとめる ゲンダイジン は おおかれ すくなかれ ニジュウ セイカツシャ と して それ を もとめて いる。 キンダイテキ セイカツ は そのよう に ヒ-ニンゲンテキ に なった。 セイカツ を クツウ と して のみ かんじる ニンゲン は セイカツ の タ の もの と して ゴラク を もとめる が、 その ゴラク と いう もの は おなじ よう に ヒ-ニンゲンテキ で ある の ホカ ない。
 ゴラク は セイカツ の フカブツ で ある か の よう に かんがえられる ところ から、 それ は また ダンネン されて も よい もの、 むしろ ダンネン さる べき もの とも かんがえられる の で ある。

 マツリ は タ の チツジョ の もの、 より たかい チツジョ の もの と むすびついて いる。 しかるに セイカツ と ゴラク とは おなじ チツジョ の もの で ある のに タイリツ させられて いる。 むしろ ゲンダイ に おける チツジョ の シソウ の ソウシツ が それら の タイリツテキ に みられる コンゲン で ある。

 タ の、 より たかい チツジョ から みる と、 ジンセイ の あらゆる イトナミ は、 マジメ な シゴト も ドウラク も、 すべて イギ (divertissement) に すぎない で あろう。 パスカル は そのよう に かんがえた。 イチド この シソウ に まで もどって かんがえる こと が、 セイカツ と ゴラク と いう タイリツ を フッショク する ため に ヒツヨウ で ある。 ゴラク の カンネン の コンテイ にも ケイジジョウガク が なければ ならぬ。

 たとえば、 ジブン の センモン は ゴラク で なく、 ゴラク と いう の は ジブン の センモン イガイ の もの で ある。 エ は ガカ に とって は ゴラク で なく、 カイシャイン に とって は ゴラク で ある。 オンガク は オンガクカ に とって は ゴラク で なく、 タイピスト に とって は ゴラク で ある。 かよう に して あらゆる ブンカ に ついて、 ゴラクテキ な タイシカタ と いう もの が できた。 そこ に ゲンダイ の ブンカ の ダラク の ヒトツ の ゲンイン が ある と いえる で あろう。

 ゲンダイ の キョウヨウ の ケッカン は、 キョウヨウ と いう もの が ゴラク の ケイシキ に おいて もとめられる こと に もとづいて いる。 センモン は 「セイカツ」 で あって、 キョウヨウ は センモン とは ベツ の もの で あり、 この もの は けっきょく ゴラク で ある と おもわれて いる の で ある。

 センモン と いう ケンチ から セイカツ と ゴラク が クベツ される に したがって、 ゴラク を センモン と する モノ が しょうじた。 カレ に とって は もちろん ゴラク は セイカツ で あって ゴラク で ある こと が できぬ。 そこ に ジュンスイ な ゴラク ソノモノ が つくられ、 ゴラク は いよいよ セイカツ から はなれて しまった。
 ゴラク を センモン と する モノ が しょうじ、 ジュンスイ な ゴラク ソノモノ が つくられる に したがって、 イッパン の ヒトビト に とって ゴラク は ジブン が それ を つくる の に サンカ する もの で なく、 ただ ソト から みて キョウラク する もの と なった。 カレラ が サンカ して いる と いう の は ただ、 カレラ が タ の カンシュウ とか チョウシュウ の ナカ に くわわって いる と いう イミ で ある。 マツリ が ゴラク の ユイイツ の ケイシキ で あった ジダイ に ヒカク して かんがえる と、 タイシュウ が、 もしくは ジュンスイ な ゴラク ソノモノ が、 もしくは キョウラク が、 カミ の チイ を しめる よう に なった の で ある。 コンニチ ゴラク の タイシュウセイ と いう もの は がいして かく の ごとき もの で ある。

 セイカツ と ゴラク とは クベツ されながら ヒトツ の もの で ある。 それら を チュウショウテキ に タイリツ させる ところ から、 ゴラク に ついて の、 また セイカツ に ついて の、 シュジュ の まちがった カンネン が しょうじて いる。
 ゴラク が セイカツ に なり セイカツ が ゴラク に ならなければ ならない。 セイカツ と ゴラク と が ジンカクテキ トウイツ に もたらされる こと が ヒツヨウ で ある。 セイカツ を たのしむ と いう こと、 したがって コウフク と いう もの が その サイ コンポン の カンネン で なければ ならぬ。
 ゴラク が ゲイジュツ に なり、 セイカツ が ゲイジュツ に ならなければ ならない。 セイカツ の ギジュツ は セイカツ の ゲイジュツ で なければ ならぬ。
 ゴラク は セイカツ の ナカ に あって セイカツ の スタイル を つくる もの で ある。 ゴラク は たんに ショウヒテキ、 キョウジュテキ な もの で なく、 セイサンテキ、 ソウゾウテキ な もの で なければ ならぬ。 たんに みる こと に よって たのしむ の で なく、 つくる こと に よって たのしむ こと が タイセツ で ある。

 ゴラク は タ の シカタ に おける セイカツ と して ワレワレ の ヘイゼイ つかわれて いない キカン や ノウリョク を はたらかせる こと に よって キョウヨウ と なる こと が できる。 この バアイ もちろん ゴラク は ただ タ の シカタ に おける セイカツ で あって、 セイカツ の タ の もの で ある の では ない。
 セイカツ の タ の もの と して の ゴラク と いう チュウショウテキ な カンネン が しょうじた の は キンダイ ギジュツ が ニンゲン セイカツ に およぼした エイキョウ に よる もの と すれば、 この キカイ ギジュツ を シハイ する ギジュツ が ヒツヨウ で ある。 ギジュツ を シハイ する ギジュツ と いう もの が ゲンダイ ブンカ の コンポン モンダイ で ある。

 コンニチ ゴラク と いわれる もの の もって いる ユイイツ の イギ は セイリテキ な もの で ある。 「ケンゼン な ゴラク」 と いう アイコトバ が それ を しめして いる。 だから ワタシ は コンニチ ゴラク と いわれる もの の ウチ タイソウ と スポーツ だけ は シンヨウ する こと が できる。 ゴラク は エイセイ で ある。 ただ、 それ は シンタイ の エイセイ で ある のみ で なく、 セイシン の エイセイ でも なければ ならぬ。 そして シンタイ の エイセイ が ケツエキ の ウンコウ を よく する こと に ある ごとく、 セイシン の エイセイ は カンネン の ウンコウ を よく する こと に ある。 ギョウケツ した カンネン が コンニチ かくも おおい と いう こと は、 ゴラク の イギ と その ホウホウ が ホント に リカイ されて いない ショウコ で ある。

 セイカツ を たのしむ モノ は リアリスト で なければ ならぬ。 しかし その リアリズム は ギジュツ の リアリズム で なければ ならない。 すなわち セイカツ の ギジュツ の センタン には つねに イマジネーション が なければ ならない。 あらゆる ちいさな コトガラ に いたる まで、 クフウ と ハツメイ が ヒツヨウ で ある。 しかも わすれて ならない の は、 ハツメイ は たんに シュダン の ハツメイ に とどまらない で、 モクテキ の ハツメイ でも なければ ならぬ と いう こと で ある。 ダイイッキュウ の ハツメイ は、 いわゆる ギジュツ に おいて も、 あたらしい ギジュツテキ シュダン の ハツメイ で ある と ともに あたらしい ギジュツテキ モクテキ の ハツメイ で あった。 しんに セイカツ を たのしむ には、 セイカツ に おいて ハツメイテキ で ある こと、 とりわけ あたらしい セイカツ イヨク を ハツメイ する こと が タイセツ で ある。

 エピキュリアン と いう の は セイカツ の ゲイジュツ に おける ディレッタント で ある。 しんに セイカツ を たのしむ モノ は ディレッタント とは クベツ される ソウゾウテキ な ゲイジュツカ で ある。

 キボウ に ついて

 ジンセイ に おいて は ナニゴト も グウゼン で ある。 しかし また ジンセイ に おいて は ナニゴト も ヒツゼン で ある。 このよう な ジンセイ を ワレワレ は ウンメイ と しょうして いる。 もし イッサイ が ヒツゼン で ある なら ウンメイ と いう もの は かんがえられない で あろう。 だが もし イッサイ が グウゼン で ある なら ウンメイ と いう もの は また かんがえられない で あろう。 グウゼン の もの が ヒツゼン の、 ヒツゼン の もの が グウゼン の イミ を もって いる ゆえ に、 ジンセイ は ウンメイ なの で ある。
 キボウ は ウンメイ の ごとき もの で ある。 それ は いわば ウンメイ と いう もの の フゴウ を ギャク に した もの で ある。 もし イッサイ が ヒツゼン で ある なら キボウ と いう もの は ありえない で あろう。 しかし イッサイ が グウゼン で ある なら キボウ と いう もの は また ありえない で あろう。
 ジンセイ は ウンメイ で ある よう に、 ジンセイ は キボウ で ある。 ウンメイテキ な ソンザイ で ある ニンゲン に とって いきて いる こと は キボウ を もって いる こと で ある。

 ジブン の キボウ は F と いう オンナ と ケッコン する こと で ある。 ジブン の キボウ は V と いう マチ に すむ こと で ある。 ジブン の キボウ は P と いう チイ を うる こと で ある。 -トウトウ。 ヒト は このよう に かたって いる。 しかし なにゆえに それ が キボウ で ある の か。 それ は ヨクボウ と いう もの で ない の か。 モクテキ と いう もの で ない の か。 あるいは キタイ と いう もの で ない の か。 キボウ は ヨクボウ とも、 モクテキ とも、 キタイ とも おなじ では ない で あろう。 ジブン が カノジョ に あった の は ウンメイ で あった。 ジブン が この トチ に きた の は ウンメイ で あった。 ジブン が イマ の チイ に いる の は ウンメイ で あった。 ココ の デキゴト が ワタシ に とって ウンメイ で ある の は、 ワタシ の ソンザイ が ゼンタイ と して ほんらい ウンメイ で ある ため で ある。 キボウ に ついて も おなじ よう に かんがえる こと が できる で あろう。 ココ の ナイヨウ の もの が キボウ と かんがえられる の は、 ジンセイ が ゼンタイ と して ほんらい キボウ で ある ため で ある。

 それ は ウンメイ だ から ゼツボウテキ だ と いわれる。 しかるに それ は ウンメイ で ある から こそ、 そこ に また キボウ も ありうる の で ある。

 キボウ を もつ こと は やがて シツボウ する こと で ある、 だから シツボウ の クルシミ を あじわいたく ない モノ は ハジメ から キボウ を もたない の が よい、 と いわれる。 しかしながら、 うしなわれる キボウ と いう もの は キボウ で なく、 かえって キタイ と いう ごとき もの で ある。 ココ の ナイヨウ の キボウ は うしなわれる こと が おおい で あろう。 しかも けっして うしなわれる こと の ない もの が ホンライ の キボウ なの で ある。
 たとえば シツレン とは あいして いない こと で ある か。 もし カレ あるいは カノジョ が もはや まったく あいして いない と すれば、 カレ あるいは カノジョ は もはや シツレン の ジョウタイ に ある の で なく すでに タ の ジョウタイ に うつって いる の で ある。 シツボウ に ついて も おなじ よう に かんがえる こと が できる で あろう。 また じっさい、 アイ と キボウ との アイダ には ミッセツ な カンケイ が ある。 キボウ は アイ に よって しょうじ、 アイ は キボウ に よって そだてられる。
 アイ も また ウンメイ では ない か。 ウンメイ が ヒツゼン と して ジコ の チカラ を あらわす とき、 アイ も ヒツゼン に しばられなければ ならぬ。 かよう な ウンメイ から カイホウ される ため には アイ は キボウ と むすびつかなければ ならない。

 キボウ と いう もの は セイメイ の ケイセイリョク イガイ の ナニモノ で ある か。 ワレワレ は いきて いる かぎり キボウ を もって いる と いう の は、 いきる こと が ケイセイ する こと で ある ため で ある。 キボウ は セイメイ の ケイセイリョク で あり、 ワレワレ の ソンザイ は キボウ に よって カンセイ に たっする。 セイメイ の ケイセイリョク が キボウ で ある と いう の は、 この ケイセイ が ム から の ケイセイ と いう イミ を もって いる こと に よる で あろう。 ウンメイ とは そのよう な ム では ない の か。 キボウ は そこ から でて くる イデー-テキ な チカラ で ある。 キボウ と いう もの は ニンゲン の ソンザイ の ケイジジョウガクテキ ホンシツ を あらわす もの で ある。

 キボウ に いきる モノ は つねに わかい。 いな セイメイ ソノモノ が ホンシツテキ に ワカサ を イミ して いる。

 アイ は ワタシ に ある の でも アイテ に ある の でも なく、 いわば その アイダ に ある。 アイダ に ある と いう の は フタリ の いずれ より も また その カンケイ より も コンゲンテキ な もの で ある と いう こと で ある。 それ は フタリ が あいする とき いわば ダイサン の もの すなわち フタリ の アイダ の デキゴト と して ジカク される。 しかも この ダイサン の もの は ゼンタイテキ に フタリ の いずれ の ヒトリ の もの でも ある。 キボウ にも これ に にた ところ が ある で あろう。 キボウ は ワタシ から しょうずる の で なく、 しかも まったく ワタシ の ナイブ の もの で ある。 シン の キボウ は ゼツボウ から しょうじる と いわれる の は、 まさに その こと すなわち キボウ が ジコ から しょうじる もの で ない こと を イミ して いる。 ゼツボウ とは ジコ を ホウキ する こと で ある から。

 ゼツボウ に おいて ジコ を すてる こと が できず、 キボウ に おいて ジコ を もつ こと が できぬ と いう こと、 それ は キンダイ の シュカンテキ ニンゲン に とって トクチョウテキ な ジョウタイ で ある。

 ジブン の もって いる もの は うしなう こと の できない もの で ある と いう の が ジンカク シュギ の コンポン の ロンリ で ある。 しかし むしろ その ギャク で なければ ならぬ。 ジブン に よる の で なく どこまでも タ から あたえられる もの で ある ゆえ に ワタシ は それ を うしなう こと が できない の で ある。 キンダイ の ジンカク シュギ は シュカン シュギ と なる こと に よって カイタイ しなければ ならなかった。

 キボウ と ゲンジツ と を コンドウ して は ならぬ と いわれる。 たしか に その とおり で ある。 だが キボウ は ふたしか な もの で ある か。 キボウ は つねに ジンセイ と いう もの ほど の タシカサ は もって いる。
 もし イッサイ が ホショウ されて いる ならば キボウ と いう もの は ない で あろう。 しかし ニンゲン は つねに それほど カクジツ な もの を もとめて いる で あろう か。 あらゆる コトガラ に たいして ホショウ される こと を ほっする ニンゲン ――ヒト は センソウ に たいして さえ ホケン-ガイシャ を セツリツ する―― も、 カケ に ネッチュウ する。 いいかえる と、 カレ は ハツメイ された グウゼン、 しいて つくられた ウンメイ に ココロ を くだこう と する の で ある。 キョウフ あるいは フアン に よって キボウ を シゲキ しよう と する の で ある。
 キボウ の カクジツセイ は イマジネーション の カクジツセイ と おなじ セイシツ の もの で ある。 セイセイ する もの の ロンリ は コケイタイ の ロンリ とは ことなって いる。

 ジンセイ モンダイ の カイケツ の カギ は カクジツセイ の あたらしい キジュン を ハッケン する こと に ある よう に おもわれる。

 キボウ が ムゲンテイ な もの で ある か の よう に かんじられる の は、 それ が ゲンテイ する チカラ ソノモノ で ある ため で ある。
 スピノザ の いった よう に、 あらゆる ゲンテイ は ヒテイ で ある。 ダンネン する こと は ホント に しって いる モノ のみ が ホント に キボウ する こと が できる。 ナニモノ も ダンネン する こと を ほっしない モノ は シン の キボウ を もつ こと も できぬ。
 ケイセイ は ダンネン で ある と いう こと が ゲーテ の たっした ふかい ケイジジョウガクテキ チエ で あった。 それ は ゲイジュツテキ セイサク に ついて のみ いわれる こと では ない。 それ は ジンセイ の チエ で ある。

 タビ に ついて

 ヒト は サマザマ の リユウ から タビ に のぼる で あろう。 ある モノ は ショウヨウ の ため に、 タ の モノ は シサツ の ため に、 さらに タ の モノ は キュウヨウ の ため に、 また ある ヒトリ は シンセキ の フコウ を みまう ため に、 そして タ の ヒトリ は ユウジン の ケッコン を いわう ため に、 と いう よう に。 ジンセイ が サマザマ で ある よう に、 タビ も サマザマ で ある。 しかしながら、 どのよう な リユウ から タビ に でる に して も、 スベテ の タビ には タビ と して の キョウツウ の カンジョウ が ある。 イッパク の タビ に でる モノ にも、 1 ネン の タビ に でる モノ にも、 タビ には あいにた カンカイ が ある。 あたかも、 ジンセイ は サマザマ で ある に して も、 みじかい イッショウ の モノ にも、 ながい イッショウ の モノ にも、 スベテ の ジンセイ には ジンセイ と して の キョウツウ の カンジョウ が ある よう に。
 タビ に でる こと は ニチジョウ の セイカツ カンキョウ を ぬける こと で あり、 ヘイゼイ の シュウカンテキ な カンケイ から のがれる こと で ある。 タビ の ウレシサ は かよう に カイホウ される こと の ウレシサ で ある。 ことさら カイホウ を もとめて する タビ で なくて も、 タビ に おいて は ダレ も なんらか カイホウ された キモチ に なる もの で ある。 ある モノ は じつに ジンセイ から ダッシュツ する モクテキ を もって さえ タビ に のぼる の で ある。 ことさら ダッシュツ を ほっして する タビ で なくて も、 タビ に おいて は ダレ も なんらか ダッシュツ に るいする キモチ に なる もの で ある。 タビ の タイショウ と して ヒト の このんで えらぶ もの が オオク の バアイ シゼン で あり、 ニンゲン の セイカツ で あって も ゲンシテキ な、 シゼンテキ な セイカツ で ある と いう の も、 これ に カンケイ する と かんがえる こと が できる で あろう。 タビ に おける かよう な カイホウ ないし ダッシュツ の カンジョウ には つねに ある タ の カンジョウ が ともなって いる。 すなわち タビ は スベテ の ヒト に おおかれ すくなかれ ヒョウハク の カンジョウ を いだかせる の で ある。 カイホウ も ヒョウハク で あり、 ダッシュツ も ヒョウハク で ある。 そこ に タビ の カンショウ が ある。
 ヒョウハク の カンジョウ は ある ウンドウ の カンジョウ で あって、 タビ は イドウ で ある こと から しょうずる と いわれる で あろう。 それ は たしか に ある ウンドウ の カンジョウ で ある。 けれども ワレワレ が タビ の ヒョウハク で ある こと を ミ に しみて かんじる の は、 クルマ に のって うごいて いる とき では なく、 むしろ ヤド に おちついた とき で ある。 ヒョウハク の カンジョウ は たんなる ウンドウ の カンジョウ では ない。 タビ に でる こと は ニチジョウ の シュウカンテキ な、 したがって アンテイ した カンケイ を だっする こと で あり、 その ため に しょうずる フアン から ヒョウハク の カンジョウ が わいて くる の で ある。 タビ は なんとなく フアン な もの で ある。 しかるに また ヒョウハク の カンジョウ は トオサ の カンジョウ なし には かんがえられない で あろう。 そして タビ は、 どのよう な タビ も、 トオサ を かんじさせる もの で ある。 この トオサ は ナン-キロ と はかられる よう な キョリ に カンケイ して いない。 マイニチ エンポウ から キシャ で ジムショ へ ツウキン して いる モノ で あって も、 カレ は この シュ の トオサ を かんじない で あろう。 ところが たとい それ より も みじかい キョリ で あって も、 イチニチ カレ が タビ に でる と なる と、 カレ は その トオサ を あじわう の で ある。 タビ の ココロ は はるか で あり、 この ハルケサ が タビ を タビ に する の で ある。 それだから タビ に おいて ワレワレ は つねに おおかれ すくなかれ ロウマンテキ に なる。 ロウマンテキ シンジョウ と いう の は トオサ の カンジョウ に ほかならない。 タビ の オモシロサ の ナカバ は かよう に して ソウゾウリョク の つくりだす もの で ある。 タビ は ジンセイ の ユートピア で ある と さえ いう こと が できる で あろう。 しかしながら タビ は たんに はるか な もの では ない。 タビ は あわただしい もの で ある。 カバン ヒトツ で でかける カンタン な タビ で あって も、 タビ には タビ の アワタダシサ が ある。 キシャ に のる タビ にも、 トホ で ゆく タビ にも、 タビ の アワタダシサ が ある で あろう。 タビ は つねに とおくて、 しかも つねに あわただしい もの で ある。 それだから そこ に ヒョウハク の カンジョウ が わいて くる。 ヒョウハク の カンジョウ は たんに トオサ の カンジョウ では ない。 とおくて、 しかも あわただしい ところ から、 ワレワレ は ヒョウハク を かんじる の で ある。 とおい と さだまって いる もの なら、 なにゆえに あわただしく する ヒツヨウ が ある で あろう か。 それ は とおい もの で なくて ちかい もの で ある かも しれない。 いな、 タビ は つねに とおくて ドウジ に つねに ちかい もの で ある。 そして これ は タビ が カテイ で ある と いう こと を イミ する で あろう。 タビ は カテイ で ある ゆえ に ヒョウハク で ある。 シュッパツテン が タビ で ある の では ない、 トウチャクテン が タビ で ある の でも ない、 タビ は たえず カテイ で ある。 ただ モクテキチ に つく こと を のみ モンダイ に して、 トチュウ を あじわう こと が できない モノ は、 タビ の シン の オモシロサ を しらぬ モノ と いわれる の で ある。 ニチジョウ の セイカツ に おいて ワレワレ は つねに しゅとして トウタツテン を、 ケッカ を のみ モンダイ に して いる、 これ が コウドウ とか ジッセン とか いう もの の ホンセイ で ある。 しかるに タビ は ホンシツテキ に カンソウテキ で ある。 タビ に おいて ワレワレ は つねに みる ヒト で ある。 ヘイゼイ の ジッセンテキ セイカツ から ぬけだして ジュンスイ に カンソウテキ に なりうる と いう こと が タビ の トクショク で ある。 タビ が ジンセイ に たいして ゆうする イギ も そこ から かんがえる こと が できる で あろう。
 なにゆえに タビ は とおい もの で ある か。 ミチ の もの に むかって ゆく こと で ある ゆえ に。 ニチジョウ の ケイケン に おいて も、 しらない ミチ を はじめて あるく とき には ジッサイ より も とおく かんじる もの で ある。 かりに スベテ の こと が まったく よく しられて いる と した なら、 ニチジョウ の ツウキン の よう な もの は あって も ホンシツテキ に タビ と いう べき もの は ない で あろう。 タビ は ミチ の もの に ひかれて ゆく こと で ある。 それだから タビ には ヒョウハク の カンジョウ が ともなって くる。 タビ に おいて は あらゆる もの が キチ で ある と いう こと は ありえない で あろう。 なぜなら、 そこ では たんに トウチャクテン あるいは ケッカ が モンダイ で ある の で なく、 むしろ カテイ が シュヨウ なの で ある から。 トチュウ に チュウイ して いる モノ は かならず ナニ か あたらしい こと、 おもいもうけぬ こと に であう もの で ある。 タビ は シュウカンテキ に なった セイカツ ケイシキ から ぬけでる こと で あり、 かよう に して ワレワレ は おおかれ すくなかれ あたらしく なった メ を もって モノ を みる こと が できる よう に なって おり、 その ため に また ワレワレ は モノ に おいて おおかれ すくなかれ あたらしい もの を ハッケン する こと が できる よう に なって いる。 ヘイゼイ みなれた もの も タビ に おいて は めあたらしく かんじられる の が ツネ で ある。 タビ の リエキ は たんに まったく みた こと の ない もの を はじめて みる こと に ある の で なく、 ――まったく あたらしい と いいうる もの が ヨノナカ に ある で あろう か―― むしろ ヘイソ ジメイ の もの、 キチ の もの の よう に かんがえて いた もの に キョウイ を かんじ、 あらた に みなおす ところ に ある。 ワレワレ の ニチジョウ の セイカツ は コウドウテキ で あって トウチャクテン あるいは ケッカ に のみ カンシン し、 ソノタ の もの、 トチュウ の もの、 カテイ は、 キチ の もの の ごとく ゼンテイ されて いる。 マイニチ シュウカンテキ に ツウキン して いる モノ は、 その ヒ イエ を でて ジムショ に くる まで の アイダ に、 カレ が ナニ を なし、 ナニ に あった か を おそらく おもいおこす こと が できない で あろう。 しかるに タビ に おいて は ワレワレ は ジュンスイ に カンソウテキ に なる こと が できる。 たびする モノ は なす モノ で なくて みる ヒト で ある。 かよう に ジュンスイ に カンソウテキ に なる こと に よって、 ヘイゼイ キチ の もの、 ジメイ の もの と ゼンテイ して いた もの に たいして ワレワレ は あらた に キョウイ を おぼえ、 あるいは コウキシン を かんじる。 タビ が ケイケン で あり、 キョウイク で ある の も、 これ に よる の で ある。
 ジンセイ は タビ、 とは よく いわれる こと で ある。 バショウ の オク の ホソミチ の ユウメイ な ク を ひく まで も なく、 これ は ダレ にも イッサイ ならず せまって くる ジッカン で あろう。 ジンセイ に ついて ワレワレ が いだく カンジョウ は、 ワレワレ が タビ に おいて もつ カンジョウ と あいつうずる もの が ある。 それ は なにゆえ で あろう か。
 どこ から どこ へ、 と いう こと は、 ジンセイ の コンポン モンダイ で ある。 ワレワレ は どこ から きた の で ある か、 そして どこ へ ゆく の で ある か。 これ が つねに ジンセイ の コンポンテキ な ナゾ で ある。 そう で ある かぎり、 ジンセイ が タビ の ごとく かんじられる こと は ワレワレ の ジンセイ カンジョウ と して かわる こと が ない で あろう。 いったい ジンセイ に おいて、 ワレワレ は どこ へ ゆく の で ある か。 ワレワレ は それ を しらない。 ジンセイ は ミチ の もの への ヒョウハク で ある。 ワレワレ の ゆきつく ところ は シ で ある と いわれる で あろう。 それにしても シ が ナン で ある か は、 ダレ も メイリョウ に こたえる こと の できぬ もの で ある。 どこ へ ゆく か と いう トイ は、 ひるがえって、 どこ から きた か と とわせる で あろう。 カコ に たいする ハイリョ は ミライ に たいする ハイリョ から しょうじる の で ある。 ヒョウハク の タビ には つねに さだか に とらえがたい ノスタルジヤ が ともなって いる。 ジンセイ は とおい、 しかも ジンセイ は あわただしい。 ジンセイ の コウロ は とおくて、 しかも ちかい。 シ は こっこく に ワレワレ の アシモト に ある の で ある から。 しかも かく の ごとき ジンセイ に おいて ニンゲン は ゆめみる こと を やめない で あろう。 ワレワレ は ワレワレ の ソウゾウ に したがって ジンセイ を いきて いる。 ヒト は ダレ でも おおかれ すくなかれ ユートピアン で ある。 タビ は ジンセイ の スガタ で ある。 タビ に おいて ワレワレ は ニチジョウテキ な もの から はなれ、 そして ジュンスイ に カンソウテキ に なる こと に よって、 ヘイゼイ は ナニ か ジメイ の もの、 キチ の もの の ごとく ゼンテイ されて いた ジンセイ に たいして あらた な カンジョウ を もつ の で ある。 タビ は ワレワレ に ジンセイ を あじわさせる。 あの トオサ の カンジョウ も、 あの チカサ の カンジョウ も、 あの ウンドウ の カンジョウ も、 ワタシ は それら が キャッカンテキ な トオサ や チカサ や ウンドウ に カンケイ する もの で ない こと を のべて きた。 タビ に おいて であう の は つねに ジコ ジシン で ある。 シゼン の ナカ を ゆく タビ に おいて も、 ワレワレ は たえず ジコ ジシン に であう の で ある。 タビ は ジンセイ の ホカ に ある の で なく、 むしろ ジンセイ ソノモノ の スガタ で ある。
 すでに いった よう に、 ヒト は しばしば カイホウ される こと を もとめて タビ に でる。 タビ は たしか に カレ を カイホウ して くれる で あろう。 けれども それ に よって カレ が しんに ジユウ に なる こと が できる と かんがえる なら、 マチガイ で ある。 カイホウ と いう の は ある もの から の ジユウ で あり、 このよう な ジユウ は ショウキョクテキ な ジユウ に すぎない。 タビ に でる と、 ダレ でも デキゴコロ に なりやすい もの で あり、 キマグレ に なりがち で ある。 ヒト の デキゴコロ を リヨウ しよう と する モノ には、 その ヒト を タビ に つれだす の が テヂカ な ホウホウ で ある。 タビ は ヒト を おおかれ すくなかれ ボウケンテキ に する、 しかし この ボウケン と いえど も デキゴコロ で あり、 キマグレ で ある で あろう。 タビ に おける ヒョウハク の カンジョウ が そのよう な デキゴコロ の コンテイ に ある。 しかしながら キマグレ は シン の ジユウ では ない。 キマグレ や デキゴコロ に したがって のみ コウドウ する モノ は、 タビ に おいて しんに ケイケン する こと が できぬ。 タビ は ワレワレ の コウキシン を カッパツ に する。 けれども コウキシン は シン の ケンキュウシン、 シン の チシキヨク とは ちがって いる。 コウキシン は キマグレ で あり、 ヒトツ の ところ に とどまって みよう とは しない で、 ツギ から ツギ へ たえず うつって ゆく。 ヒトツ の ところ に とどまり、 ヒトツ の もの の ナカ に ふかく はいって ゆく こと なし に、 いかに して しんに モノ を しる こと が できる で あろう か。 コウキシン の コンテイ に ある もの も さだめなき ヒョウハク の カンジョウ で ある。 また タビ は ニンゲン を カンショウテキ に する もの で ある。 しかしながら ただ カンショウ に ひたって いて は、 なにひとつ ふかく ニンシキ しない で、 なにひとつ ドクジ の カンジョウ を もたない で しまわねば ならぬ で あろう。 シン の ジユウ は モノ に おいて の ジユウ で ある。 それ は たんに うごく こと で なく、 うごきながら とまる こと で あり、 とまりながら うごく こと で ある。 ドウ そく セイ、 セイ そく ドウ と いう もの で ある。 ニンゲン いたる ところ に セイザン あり、 と いう。 この コトバ は やや カンショウテキ な キライ は ある が、 その イギ に てっした モノ で あって しんに タビ を あじわう こと が できる で あろう。 しんに タビ を あじわいうる ヒト は しんに ジユウ な ヒト で ある。 たびする こと に よって、 かしこい モノ は ますます かしこく なり、 おろか な モノ は ますます おろか に なる。 ニチジョウ コウサイ して いる モノ が いかなる ニンゲン で ある か は、 イッショ に たびして みる と よく わかる もの で ある。 ヒト は その ヒト ソレゾレ の タビ を する。 タビ に おいて しんに ジユウ な ヒト は ジンセイ に おいて しんに ジユウ な ヒト で ある。 ジンセイ ソノモノ が じつに タビ なの で ある。

 コセイ に ついて

 コセイ の おくぶかい デンドウ に いたる ミチ は テーバイ の マチ の モン の カズ の よう に おおい。 ワタシ の イチイチ の セイカツ は ワタシ の シンコウ の いける コクハク で あり、 ワタシ の ココ の コウイ は ワタシ の シュウキョウ の かたらざる デンドウ で ある。 ワタシ の ウチ に キョライ する モロモロ の ココロ は ジコ の ドウオウ に まつられたる もの の チョクセツテキ な ニンシキ を ワタシ に よびおこさせる ため に セイセイ し、 ハッテン し、 ショウメツ する。 それゆえに ユウゲン な もの を とおして ムゲン な もの を ホソク しうる モノ は、 ワタシ の ただ ヒトツ の シソウ カンジョウ もしくは コウイ を しる こと に よって さえ、 ワタシ が マコト の カミ の シンジャ で ある か、 それとも バール の ソウリョ で ある か を ドウサツ しうる で あろう。 しかしながら オオク の ミチ が ある と いう こと は その イミ を つかみえない モノ に とって は たんに メイロ が ある と いう に すぎない。
 ワタシ は ワタシ の ウチ に ムスウ の シンゾウ が はてしなく キョライ する の を イシキ する。 ワタシ と いう もの は ワタシ の ノウリ に しょうずる ヒョウショウ や カンジョウ や イヨク の totum discretum で ある の か。 それ は 「カンネン の タバ」 で でも ある の か。 けれども ワタシ は イッサイ の カツドウ が ただ ワタシ に おいて おこる こと を しって いる。 ワタシ と いう もの は ムスウ の シンゾウ が その ウエ に あらわれて は きえつつ サマザマ な ヒキゲキ を えんずる ブタイ で ある の か。 それ は スベテ の もの が そこ へ はいって ゆく が ナニモノ も そこ から でて こない ところ の 「シシ の すむ ホラアナ」 で でも ある の か。 しかし ワタシ は ワタシ の セイシン カテイ の セイセイ と ショウメツ、 セイサン と スイボウ の イッサイ が ただ ワタシ に よって おこる こと を しって いる。
 もし ワタシ と いう もの が ワタシ の あらゆる ウンドウ と ヘンカ が その マエ で えんじられる ハイケイ で ある と すれば、 それ は じつに キカイ で ブキミ な Unding で ある と いわねば ならぬ。 ワタシ は それ に いかなる シジ しう べき ナイヨウ をも あたえる こと が できない。 なぜなら ワタシ が それ に ついて ヒョウショウ する セイシツ は ことごとく この ハイケイ を まって カノウ なの で あって ハイケイ ソノモノ では ない から。 したがって それ は もはや コセイ で ある こと を やめねば ならない。 ワタシ は かよう な もの を ただ ナニモノ で でも なく また、 ナニモノ から も しょうじない チュウショウテキ ジッタイ と して かんがえうる のみ で ある。 かくして ワタシ は キョムカン の マエ に たたずむ。 ワタシ に よって けっして タイケン される こと が ない この アクマテキ な Unding は、 ワタシ が ケイケン する イロ あり ヒビキ ある スベテ の ヨロコビ と カナシミ を なめつくし、 くいつくして しまう。 しかし ワタシ は この もの から ふたたび シチサイ の コウサク する うつくしい セカイ へ かえる べき スベ を しらない の で ある。
 ワタシ も また 「マン の ココロ を もつ ヒト」 で ある。 ワタシ は ワタシ の ナイブ に たえず せめぎあい、 いがみあい、 アイハンタイ し、 アイムジュン する オオク の ココロ を みいだす の で ある。 しかしながら ワタシ は これら ムスウ の あいしあい、 たすけあう、 そして じつに しばしば にくしみあい、 いどみあう ココロ の aggregatum per accidens では ない で あろう。 あるいは それら の シンゾウ が たんに シンリガクテキ ホウソク に したがって ケツゴウ した もの で ない で あろう。 ワタシ に して 「カンネン の タバ」 に すぎない と すれば、 シンリ ガクシャ が ワタシ を リカイ しよう と して こころみる セツメイ は セイトウ で ある。 カレラ は ワタシ の ウチ に あらわれる セイシン ゲンショウ を イッテイ の ハンチュウ と ホウソク と に したがって ブンルイ し、 ソウカツ し、 また ワタシ の キオク が シカクガタ に ぞくする か、 チョウカクガタ に ぞくする か、 さらに ワタシ の セイカク が タケツシツ で ある か、 タンジュウシツ で ある か、 -トウトウ、 を ケッテイ する。 けれども チュウショウテキ な ガイネン と ゲンゴ は スベテ の もの から コセイ を うばって イチヨウ に コッカイ を つくり、 ピーター と ポール と を おなじ に する あしき デモクラシー を おこなう もの で ある。 ワタシ は フヘンテキ な ルイケイ や ホウソク の ヒョウホン もしくは デンタツキ と して ソンザイ する の で ある か。 しからば ワタシ も また いわねば ならない、 「ワタシ は ホウソク の ため に では なく レイガイ の ため に つくられた よう な ニンゲン の ヒトリ で ある」 と。 ナナツ の テン を はかりうる とも、 ダレ が いったい ニンゲン の タマシイ の キドウ を はかる こと が できよう。 ワタシ は ワタシ の コセイ が いっそう おおく キジュツ され テイギ される こと が できれば できる ほど、 その カチ が げんじて ゆく よう に かんじる の で ある。
 ヒト は ワタシ に コセイ が ムゲン な ソンザイ で ある こと を おしえ、 ワタシ も また そう しんじて いる。 チキュウ の チュウシン と いう もの の よう に たんに イチ あって ニ ない もの が コセイ では ない。 1 ゴウ、 2 ゴウ と いう よう に クベツ される キャッカンテキ な コベツセイ あるいは タ との ヒカク の ウエ での ドクジセイ を もって いる もの が コセイ で ある の では ない。 コセイ とは かえって ムゲン な ソンザイ で ある。 ワタシ が ムゲン な ソンザイ で ある と いう の は、 ワタシ の シンリ に ムスウ の ヒョウショウ、 カンジョウ、 イヨク が はてしなく コウタイ する と いう イミ で あろう か。 しかし もし ワタシ に して それら の セイシン カテイ の たんに グウゼンテキ な もしくは ガイメンテキ な ケツゴウ に すぎない ならば、 ワタシ は ただ ゲンショウ と して ソンザイ しうる ばかり で ある。 ワタシ に して ゲンショウ で ある イジョウ の イミ を もつ こと が できない ならば エイゴウ の トキ の ナガレ の ヒトツ の テン に うかびでる ホウマツ にも ひす べき ワタシ の セイ に おいて いかに オオク の もの が その ウチ に やどされよう とも、 いずれ は シュユ に して きえゆく ワタシ の ウンメイ では ない か。 モロモロ の タイヨウ をも ヨウシャ しない トキ の ケイカ は、 ワタシ の ノウリ に セイキ する シンゾウ の ムゲン を ヒトタマリ も なく かたづけて しまう で あろう。 それゆえに ワタシ に して しんに ムゲン な ソンザイ で ある べき ならば、 ワタシ の ウチ に トキ の しょうじえず、 また トキ の めっしえざる ある もの が ソンザイ する の で なければ ならない。
 けれども ワタシ は ジカン を はなれて コベツカ の ゲンリ を かんがえうる で あろう か。 コセイ と いう の は イッカイテキ な もの、 くりかえさない もの の こと では ない で あろう か。 しかし ワタシ は たんに ジカンテキ ジュンジョ に よって のみ クベツ される メトロノーム の あいついで なる ヒトツヒトツ の オト を コセイ と かんがえる こと を チュウチョ する。
 ジカン は コセイ の ユイイツセイ の ガイメンテキ な チョウヒョウ に すぎない の で あって、 ホンシツテキ には コセイ は コセイ ジシン の ハタラキ ソノモノ に おいて クベツ される の で なければ ならぬ。 コセイ の ユイイツセイ は それ が ドクリツ な ソンザイ と して 「タ の ナニモノ の シュツニュウ す べき マド を ゆうせず」、 ジソクテキ な ナイメンテキ ハッテン を とげる ところ に セイリツ する の で あって、 コセイ は ジコ カツドウテキ な もの で ある ゆえ に ジコ クベツテキ な もの と して ジコ の ユイイツセイ を シュチョウ しうる の で ある。 もとより ワタシ が セカイ カテイ の いかなる とき に セイ を うける か と いう こと は、 あたかも オンガク の ヒトツ の キョク の いかなる シュンカン に ある オト が くる か と いう こと が グウゼン で ない よう に、 グウゼン では ない で あろう。 それ は ワタシ と いう コセイ の ナイメンテキ な イミ の カンケイ に よって ケッテイ される こと で ある。 しかし ワタシ は ジカン の ケイシキ に よって オンガク を リカイ する の で なく、 むしろ オンガク に おいて シン の ジカン ソノモノ を タイケン する の で ある。 「シゼン を リカイ しよう と する モノ は シゼン の ごとく もくして これ を リカイ しなければ ならぬ」 と いわれた よう に、 コセイ を リカイ しよう と ほっする モノ は トキ の ナガレ の ザワメキ を チョウエツ しなければ ならない。 カレ は ノウベン を とらえて その クビ を ねじなければ ならない。 けれども ワタシ が トキ の ナガレ を リダツ する の は トキ の ケイカ の かんがえつくす こと が できぬ はるか の ノチ に おいて では なく、 ワタシ が ながれる トキ の ナカ に ジコ を ひたして しんに トキ ソノモノ に なった とき で ある。 たんなる ニンシキ の ケイシキ と して の ジカン から カイホウ されて、 ジュンスイ ジゾク に ジユウ に ミ を まかせた とき で ある。 ながめる ところ に コセイ の リカイ の ミチ は ない。 ワタシ は ただ はたらく こと に よって ワタシ の ナン で ある か を リカイ しうる の で ある。
 イチヨウ に スイイ し リュウカ する くろい マク の よう な トキ の ソクバク と キハン から のがれでる とき、 ワタシ は ムゲン を カクトク する の で ない か。 なぜなら ジコ カツドウテキ な もの は ムゲン な もの で なければ ならない から。 たんに ムスウ の ブブン から ゴウセイ された もの が ムゲン で ある の では なく、 ムゲン な もの に おいて は ブブン は ゼンタイ が ゲンテイ されて しょうずる もの と して つねに ゼンタイ を ヒョウゲン して いる。 そして ワタシ が スベテ の タマシイ を なげだして はたらく とき、 ワタシ の ココ の コウイ には ワタシ の コセイ の ゼンタイ が ゲンジツテキ な もの と して つねに ヒョウゲン されて いる の で ある。 ムゲン な もの は ヒトツ の モクテキ、 または キト に トウイツ された もの で あって、 その ハッテン の ヒトツ の ダンカイ は ヒツゼンテキ に ツギ の ダンカイ へ うつりゆく べき ケイキ を その ウチ に ふくんで いる。 リチ の ギコウ を はなれて ジュンスイ な ガクモンテキ シサク に ふける とき、 カンジョウ の ホウトウ を さって ジュンスイ な ゲイジュツテキ セイサク に したがう とき、 ヨクボウ の ダサン を しりぞけて ジュンスイ な ドウトクテキ コウイ を おこなう とき、 ワタシ は かよう な ムゲン を タイケン する。 シイ される こと が できず ただ タイケン される こと が できる ムゲン は、 つねに カチ に みちた もの すなわち エイエン な もの で ある。 それ は イシキ される に せよ イシキ されぬ に せよ、 キハン イシキ に よって ヒトツ の カテイ から ツギ の カテイ へ ヒツゼンテキ に みちびかれる かぎりなき ソウゾウテキ カツドウ で ある。 かよう な ヒツゼンセイ は もとより インガリツ の ヒツゼンセイ では なく、 チョウ-ジカンテキ で コセイテキ な ナイメンテキ ヒツゼンセイ で ある。
 しかしながら ワタシ は ワタシ が ムゲン を タイケン する こと すなわち しんに ジュンスイ に なる こと が きわめて まれ で ある こと を コクハク しなければ ならない。 ワタシ は オオク の バアイ 「ヒト は それ を リセイ と なづけて ただ あらゆる ドウブツ より も いっそう ドウブツテキ に なる ため に もちいて いる」 と メフィスト が あざけった よう な リセイ の シヨウシャ で ある。 ワタシ の カンジョウ は タイテイ の とき セイサンテキ ソウゾウテキ で ある こと を やめて、 タイダ に なり オウチャク に なって、 コビ と シバイギ に みちた ドウラク を しよう と する。 ワタシ の イシ は じつに しばしば リコテキ な ダサン が つむぐ アミ の ナカ に まきこまれて しまう の で ある。
 かよう に して ワタシ は、 コセイ が ヨウラン と ともに ワタシ に おくられた オクリモノ では なく、 ワタシ が タタカイ を もって カクトク しなければ ならない リネン で ある こと を しった。 しかし ワタシ は この はかりがたい タカラ が ジコ の ソト に たずねらる べき もの では なくて、 ただ ジコ の コンゲン に かえって もとめらる べき もの で ある こと も しった。 もとめる と いう こと は ある が まま の ジコ に しゅうしつつ タ の ナニモノ か を それ に つけくわえる こと では ない。 ヒト は ジコ を めっする こと に よって かえって ジコ を カクトク する。 それゆえに ワタシ は イダイ な シュウキョウカ が 「ワレ もはや いける に あらず、 キリスト ワレ に おいて いける なり」 と いった とき、 カレ が キリスト に なった の で なく、 カレ が しんに カレ ジシン に なった の で ある こと を リカイ する。 ワタシ の コセイ は コウセイ に よって のみ ワタシ の ウチ に うまれる こと が できる の で ある。
 テツガクシャ は コセイ が ムゲン な ソンザイ で ある こと を ツギ の よう に セツメイ した。 コセイ は ウチュウ の いける カガミ で あって、 イツ に して イッサイ なる ソンザイ で ある。 あたかも あいあつまる チョクセン が つくる ムゲン の カク が かいする タンイツ な チュウシン の ごとき もの で ある。 スベテ の コベツテキ ジッタイ は カミ が ゼンウチュウ に ついて なした ケツイ を あらわして いる の で あって、 イッコ の コセイ は ゼンセカイ の イミ を ユイイツ の シカタ で ゲンジツカ し ヒョウゲン する ミクロコスモス で ある。 コセイ は ジコ ジシン の ウチ に タ との ムゲン の カンケイ を ふくみつつ しかも ゼンタイ の ナカ に おいて しめる ならびなき イチ に よって コセイ なの で ある。 しからば ワタシ は いかに して ゼンウチュウ と ムゲン の カンケイ に たつ の で ある か。 コノヨ に セイ を うけた、 または うけつつ ある、 または うけん と する ムスウ の ドウホウ の ナカ で、 ジクウ と インガ と に ソクバク された もの と して ワタシ の しりうる ニンゲン は まことに すくない では ない か。 この ショウスウ の ニンゲン に ついて さえ、 カレラ の スベテ と たえず コウショウ する こと は、 ワタシ を ニンゲンギライ に して しまう で あろう、 ワタシ は むしろ コドク を もとめる。 しかしながら ヒト は にぎやか な チマタ を さけて うすぐらい ジブン の ヘヤ に かえった とき しんに コドク に なる の では なく、 かえって 「ヒト は ホシ を ながめる とき もっとも コドク で ある」 の で ある。 エイエン な もの の カンソウ の ウチ に ジコ を うしなう とき、 ワタシ は うつくしい ゼッタイ の コドク に はいる こと が できる。
 しからば ワタシ は テツガクシャ が おしえた よう に カミ の ヨテイ チョウワ に あって タ との ムゲン の カンケイ に はいって いる の で あろう か。 ワタシ は カミ の イシ ケッテイ に セイヤク されて ゼンセカイ と フヘン の キソクテキ カンケイ に たって いる の でも あろう か。 しからば ワタシ は ヒトツ の ヒツゼン に キカイテキ に したがって いる の で あり、 ワタシ の カチ は ワタシ ジシン に では なく ワタシ を こえて フヘンテキ な もの に イゾン して いる の では ない か。 ワタシ は むしろ ジユウ を もとめる。 そして ワタシ が ホント に ジユウ で ある こと が できる の は、 ワタシ が リチ の サイク や カンジョウ の ユウギ や ヨクボウ の ダサン を すてて ジュンスイ に ソウゾウテキ に なった とき で ある。 かよう な コドク と かよう な ソウゾウ との ウチ に ふかく ひそみいる とき、 シジン が “Voll milden Ernsts, in thatenreicher Stille” と うたった ジカン に おいて、 ワタシ は ウチュウ と ムゲン の カンケイ に たち、 イッサイ の タマシイ と うつくしい チョウワ に だきあう の では ない で あろう か。 なぜなら その とき ワタシ は どのよう な ムゲン の もの も その ナカ では あたえられない ジカンテキ セカイ を チョウエツ して、 ウチュウ の ソウゾウ の チュウシン に ジコ の チュウシン を よこたえて いる の で ある から。 ジユウ な ソンザイ すなわち イッコ の ブンカジン と して のみ ワタシ は、 いわゆる シャカイ の ナカ で カツドウ する に せよ しない に せよ、 ゼンウチュウ と ムゲン の カンケイ に はいる の で ある。 かよう に して また コセイ の ユイイツセイ は それ が ゼンタイ の シゼン の ナカ で しめる イチ の ユイイツセイ に そんする の では なく、 ホンシツテキ には それ が ゼンタイ の ブンカ の ナカ で かせられて いる ニンム の ユイイツセイ に キソ-づけられる もの で ある こと を ワタシ は しる の で ある。
 コセイ を リカイ しよう と ほっする モノ は ムゲン の ココロ を しらねば ならぬ。 ムゲン の ココロ を しろう と おもう モノ は アイ の ココロ を しらねば ならない。 アイ とは ソウゾウ で あり、 ソウゾウ とは タイショウ に おいて ジコ を みいだす こと で ある。 あいする モノ は ジコ に おいて ジコ を ヒテイ して タイショウ に おいて ジコ を いかす の で ある。 「イツ に して イッサイ なる カミ は オノレ ジシン にも ヒミツ で あった、 それゆえに カミ は オノレ を みん が ため に ソウゾウ せざる を えなかった」 カミ の ソウゾウ は カミ の アイ で あり、 カミ は ソウゾウ に よって ジコ ジシン を みいだした の で ある。 ヒト は アイ に おいて ジュンスイ な ソウゾウテキ カツドウ の ウチ に ぼっする とき、 ジコ を ドクジ の ある もの と して すなわち ジコ の コセイ を みいだす。 しかしながら あいせん と ほっする モノ には つねに あいしえざる ナゲキ が あり、 うまん と する モノ は たえず ウミ の ナヤミ を ケイケン しなければ ならぬ。 カレ は カレ が ジュンスイ な セイカツ に はいろう と すれば する ほど、 リコテキ な クフウ や カンショウテキ な タワムレ や こざかしい ギコウ が いよいよ オオク の ユウワク と キョウヨウ を もって カレ を さまたげる の を ツウカン しなければ ならない。 そこで カレ は 「ワレ は ツミビト の クビ なり」 と さけばざる を えない の で ある。 ワタシタチ は アク と ゴビュウ との クルシミ に チ を ながす とき、 ザンゲ と イノリ との ため に ダイチ に なみだする とき、 しんに ジコ ジシン を しる こと が できる。 タイダ と ガシュウ と ゴウマン と ほど、 ワタシタチ を ジコ の ホンシツ の リカイ から とおざける もの は ない。
 ジコ を しる こと は やがて タニン を しる こと で ある。 ワタシタチ が ワタシタチ の タマシイ が みずから たっした タカサ に おうじて、 ワタシタチ の シュウイ に しだいに オオク の コセイ を ハッケン して ゆく。 ジコ に たいして モウモク な ヒト の みる セカイ は ただ イチヨウ の ハイイロ で ある。 ジコ の タマシイ を マタタキ せざる メ を もって ギョウシ しえた ヒト の マエ には、 イッサイ の もの が ヒカリ と イロ との うつくしい コウサク に おいて ひろげられる。 あたかも すぐれた ガカ が アムステルダム の ユダヤ-ガイ にも つねに カイガテキ な ビ と けだかい イゲン と を みいだし、 その ジュウミン が ギリシアジン で ない こと を うれえなかった よう に、 ジコ の コセイ の リカイ に トウテツ しえた ヒト は もっとも ヘイボン な ニンゲン の アイダ に おいて さえ ソレゾレ の コセイ を ハッケン する こと が できる の で ある。 かよう に して ワタシ は ここ でも コセイ が あたえられた もの では なくて カクトク されねば ならぬ もの で ある こと を しる の で ある。 ワタシ は ただ あいする こと に よって タ の コセイ を リカイ する。 わかちえらぶ リチ を すてて だきかかえる ジョウイ に よって それ を しる。 バアタリ の インショウ や キマグレ な チョッカン を もって では なく、 シンボウ-づよい アイ と しなやか な ドウサツ に よって それ を ハアク する の で ある。 ―― 「ナンジ ココロ を つくし、 セイシン を つくし、 オモイ を つくして シュ なる ナンジ の カミ を あいす べし、 これ は ダイ に して ダイイチ の イマシメ なり、 ダイニ も また これ に ひとし、 オノレ の ごとく ナンジ の トナリ を あいす べし」

 コウキ

 この ショモツ は その セイシツジョウ ジョブン を ヒツヨウ と しない で あろう。 ただ カンタン に その セイリツ に ついて コウキ して おけば たりる。 この ノート は、 「タビ に ついて」 の イッペン を のぞき、 ショウワ 13 ネン 6 ガツ イライ 『ブンガクカイ』 に ケイサイ されて きた もの で ある。 もちろん これ で おわる べき セイシツ の もの で なく、 ただ シュッパンシャ の キボウ に したがって イマ まで の ブン を 1 サツ に まとめた と いう に すぎない。 この キカイ に ワタシ は 『ブンガクカイ』 の イゼン の および ゲンザイ の ヘンシュウシャ、 シキバ シュンゾウ、 ウチダ カツミ、 ショウノ セイイチ の 3 クン に とくに シャイ を ひょうしなければ ならぬ。 ヒトツ の ホン が できる に ついて ヘンシュウシャ の ドリョク の いかに おおきく、 それ が いわば チョシャ と ヘンシュウシャ との キョウドウ セイサク で ある と いった ジジョウ は、 オオク の ドクシャ には まだ それほど リカイ されて いない の では ない か と おもう。 ヘンシュウシャ の シゴト の ブンカテキ イギ が もっと イッパン に ニンシキ され、 それ に ふさわしい ソンケイ の はらわれる こと が のぞましい の で ある。
 フロク と した 「コセイ に ついて」 (1920 ネン 5 ガツ) と いう イッペン は、 ダイガク ソツギョウ の チョクゼン 『テツガク ケンキュウ』 に ケイサイ した もの で あって、 ワタシ が オオヤケ の キカン に モノ を ハッピョウ した サイショ で ある。 20 ネン マエ に かかれた この ヨウチ な ショウロン を ジブン の オモイデ の ため に ここ に シュウロク する と いう ワガママ も、 ホンショ の ごとき セイシツ の もの に おいて は ゆるされる こと で あろう か。

  ショウワ 16 (1941) ネン 6 ガツ フツカ
                                  ミキ キヨシ

ある オンナ (ゼンペン)

 ある オンナ  (ゼンペン)  アリシマ タケオ  1  シンバシ を わたる とき、 ハッシャ を しらせる 2 バンメ の ベル が、 キリ と まで は いえない 9 ガツ の アサ の、 けむった クウキ に つつまれて きこえて きた。 ヨウコ は ヘイキ で それ ...