ハハ を こうる キ
タニザキ ジュンイチロウ
イニシヘ に こふる トリ かも ユヅルハ の
ミヰ の ウヘ より なきわたりゆく
―――マンヨウシュウ―――
………ソラ は どんより と くもって いる けれど、 ツキ は ふかい クモ の オク に のまれて いる けれど、 それでも どこ から か ヒカリ が もれて くる の で あろう、 トノモ は しらじら と あかるく なって いる の で ある。 その アカルサ は、 あかるい と おもえば かなり あかるい よう で、 ミチバタ の コイシ まで が はっきり と みえる ほど で ありながら、 なんだか メノマエ が もやもや と かすんで いて、 トオク を じっと みつめる と、 ヒトミ が くすぐったい よう に かんぜられる、 イッシュ フシギ な、 マボロシ の よう な アカルサ で ある。 ナニ か、 ニンゲン の ヨ を はなれた、 はるか な はるか な ムキュウ の クニ を おもわせる よう な アカルサ で ある。 その とき の キモチ-シダイ で、 ヤミヨ とも ツキヨ とも どっち とも かんがえられる よう な バン で ある。 しろじろ と した ナカ にも きわだって しろい ヒトスジ の カイドウ が、 ワタシ の ユクテ を マッスグ に はしって いた。 カイドウ の リョウガワ には ながい ながい マツナミキ が メ の とどく かぎり つづいて、 それ が おりおり ヒダリ の ほう から ふいて くる カゼ の ため に ざわざわ と エダハ を ならして いた。 カゼ は ミョウ に シメリケ を ふくんだ、 シオ の カ の たかい カゼ で あった。 きっと ウミ が ちかい ん だな と、 ワタシ は おもった。 ワタシ は ナナツ か ヤッツ の コドモ で あった し、 おまけに おさない ジブン から きわめて オクビョウ な ショウネン で あった から、 こんな ヨフケ に こんな さびしい イナカミチ を ヒトリ で あるく の は ずいぶん こころぼそかった。 なぜ バアヤ が イッショ に きて くれなかった ん だろう。 バアヤ は あんまり ワタシ が いじめる ので、 おこって ウチ を でて しまった の じゃ ない かしら。 そう おもいながら も、 ワタシ は イツモ ほど こわがらない で、 その カイドウ を ひたすら たどって いった。 ワタシ の ちいさな ムネ の ナカ は、 ヨミチ の オソロシサ より も もっと つらい やるせない カナシミ の ため に いっぱい に なって いた。 ワタシ の イエ が、 あの にぎやか な ニホンバシ の マンナカ に あった ワタシ の イエ が、 こういう ヘンピ な カタイナカ へ ひっこさなければ ならなく なって しまった こと、 キノウ に かわる キュウゲキ な ワガヤ の ヒウン、 ―――それ が コドモゴコロ にも ワタシ の ムネ に イイヨウ の ない カナシミ を もたらして いた の で あった。 ワタシ は ジブン で ジブン の こと を かわいそう な コドモ だ と おもった。 コノアイダ まで は キハチジョウ の ワタイレ に つやつや と した イトオリ の ハオリ を きて、 ちょいと でる にも キャラコ の タビ に オモテツキ の コマゲタ を はいて いた もの が、 まあ なんと いう あさましい カワリヨウ を した の だろう。 まるで テラゴヤ の シバイ に でて くる ヨダレクリ の よう な、 うすぎたない、 みすぼらしい、 ヒトマエ に でる さえ はずかしい スガタ に なって しまって いる。 そうして ワタシ の テ にも アシ にも ヒビ や アカギレ が きれて カルイシ の よう に ざらざら して いる。 かんがえて みれば バアヤ が いなく なった の も ムリ は ない。 ワタシ の ウチ には もう バアヤ を かかえて おく ほど の オカネ が なくなった の だ。 それ どころ か、 ワタシ は マイニチ オトウサン や オカアサン を たすけて、 イッショ に はたらかなければ ならない。 ミズ を くんだり、 ヒ を おこしたり、 ゾウキンガケ を したり、 とおい ところ へ オツカイ に いったり、 イロイロ の こと を しなければ ならない。
もう、 あの うつくしい ニシキエ の よう な ニンギョウ-チョウ の ヨル の チマタ を うろつく こと は できない の か。 スイテングウ の エンニチ にも、 カヤバ-チョウ の ヤクシサマ にも、 もう あそび に ゆく こと は できない の か。 それにしても コメヤマチ の ミイ ちゃん は イマゴロ どうして いる だろう。 ヨロイバシ の センドウ の セガレ の テツコウ は どうした だろう。 カマボコヤ の シンコウ や、 ゲタヤ の コウジロウ や、 あの レンチュウ は イマ でも なかよく つれだって、 タバコヤ の カキウチ の 2 カイ で マイニチ マイニチ シバイ-ゴッコ を して いる だろう か。 もう あの レンチュウ とは、 オトナ に なる まで おそらくは ふたたび めぐりあう とき は ない。 それ を かんがえる と うらめしく も あり なさけなく も ある。 だが、 ワタシ の ムネ を つらぬいて いる カナシミ は たんに その ため ばかり では ない らしい。 ちょうど この マツナミキ の ツキ の イロ が ワケ も なく かなしい よう に、 ワタシ の ムネ には リユウ の しれない ムゲン の カナシミ が、 ひしひし と せまって いる の で ある。 なぜ このよう に かなしい の だろう。 そうして また、 それほど かなしく おもいながら なぜ ワタシ は なかない の だろう。 ワタシ は フダン の ナキムシ にも にあわず、 ナミダ イッテキ こぼして は いない の で ある。 たとえば アイオン に みちた シャミセン を きく とき の よう な、 さえざえ と した、 すきとおった シミズ の よう に すみわたった カナシミ が、 どこ から とも なく ココロ の オク に ふきこまれて くる の で ある。
ながい ながい マツバラ の ミギ の ほう には、 サイショ は ハタケ が ある らしかった が、 あるきながら ふと キ が ついて みる と、 いつのまにやら ハタケ では なくなって、 なんだか マックラ な ウミ の よう な ヘイメン が ひろびろ と ひらけて いる。 そうして、 ヘイメン の トコロドコロ に あおじろい ひらひら した もの が みえたり かくれたり する。 ヒダリ の ほう から、 レイ の いそっくさい シオカゼ が ふいて くる たび に、 その あおじろい ヒラヒラ は いっそう カズ が おおく なって、 しわがれた、 ロウジン の チカラ の ない セキ を おもわせる よう な、 かすれた オト を たてながら ざわざわ と なって いる。 ウミ の ヒョウメン に ナミガシラ が たつ の かしら とも かんがえた が、 どうも そう では ない らしい。 ウミ が あんな かさかさ した コエ を だす わけ が ない。 どうか した ヒョウシ には、 マモノ が しろい ハ を むきだして にやにや わらって いる よう にも みえる ので、 ワタシ は なるべく その ほう へ メ を やらない よう に つとめた。 けれども、 ウスキミ が わるい と おもえば おもう ほど、 やっぱり みず には いられなく なって、 ときどき ちらり と その ほう を ぬすみみる。 ちらり、 ちらり、 と、 ナンド みて も ヨウイ に ショウタイ は わからない。 ざあーっ と いう マツカゼ の オト の アイダ から、 かさかさ と なる コエ が いよいよ しげく ワタシ の ミミ を おびやかして いる。 すると、 その うち に ヒダリ の マツバラ の ムコウ の とおい ところ から、 ど、 ど、 どどん――― と いう ホントウ の ウミ の オト が きこえて きた。 あれ こそ たしか に ナミ の オト だ。 ウミ が なって いる の だ、 と ワタシ は おもった。 その ウミ の オト は、 はなれた ダイドコロ で イシウス を ひく よう に、 かすか では ある が おもくるしく、 ちからづよく、 いんいん と とどろいて いる の で ある。
ナミ の オト、 マツカゼ の オト、 かさかさ と なる エタイ の しれぬ モノ の オト、 ―――ワタシ は ときどき ぴったり と たちどまって、 ミ に しみわたる それら の オト に ミミ を かたむけて は、 また とぼとぼ と あるいて いった。 おりおり、 タンボ の コヤシ の ニオイ の よう な もの が どこ から とも なく におって くる の が かんぜられた。 すぎて きた ミチ を ふりかえる と、 やはり ユクテ と おなじ よう な マツ の ナワテ が ハテシ も なく つづいて いる。 どっち を むいて も ジンカ の ヒ らしい もの は イッテン も みとめられない。 それに、 サッキ から もう 1 ジカン イジョウ も あるいて いる のに ヒトドオリ が まったく ない。 たまたま であう の は ヒダリガワ の マツバラ に ヘイコウ して 20 ケン-オキ ぐらい に たって いる デンシンバシラ だけ で ある。 そうして その デンシンバシラ も、 あの ナミ の オト と おなじ よう に ごうごう と なって いる。 ワタシ は ショザイナサ に 1 ポン の デンシンバシラ を おいこす と、 コンド は ツギ の デンシンバシラ を モクヒョウ に して、 1 ポン、 2 ホン、 3 ボン、 ………と いう ふう に かぞえながら あるいて ゆく の で あった。
30 ポン、 31 ポン、 32 ホン、 ………56 ポン、 57 ホン、 58 ポン、 ………こういう よう に して、 ワタシ が たぶん 70 ポン-メ の デンシンバシラ を かぞえた ジブン で あったろう、 とおい カイドウ の かなた に はじめて イッテン の ホカゲ が、 ぽつり と みえだした の で ある。 しぜん と ワタシ の モクヒョウ は デンシンバシラ から その ヒ の ほう へ てんじた が、 ヒ は イクド か マツナミキ の アイダ に ちらちら と かくれて は また あらわれる。 ヒ と ワタシ との カンカク は デンシンバシラ の カズ に して 10 ポン ぐらい はなれて いる らしく おもわれた けれど、 あるいて みる と なかなか そんな に チカク では ない。 10 ポン どころ か、 20 ポン-メ の ハシラ を おいこして も、 ヒ は いぜん と して トオク の ほう で ちらちら して いる。 チョウチン の ヒ ほど の アカルサ で、 じっと ヒトツトコロ に テイタイ して いる よう で ある が、 しかし あるいは ワタシ と おなじ ホウガク に むかって おなじ よう な ソクリョク で イッチョクセン に うごきつつ ある の かも しれない。………
ワタシ が、 ようよう その ヒ の ある ところ から ハンチョウ ほど テマエ まで やって きた の は、 それから ナンプン ぐらい、 あるいは ナンジップン ぐらい ノチ で あったろう。 チョウチン の アカルサ ほど に にぶく みえて いた その ヒカリ は、 やがて だんだん つよく あざやか に なって、 その フキン の カイドウ の ヤミ を ヒルマ の よう に はっきり と てらして いる。 ほのじろい ジメン と、 くろい マツ の キ と を ながい アイダ みなれて きた ワタシ は、 その とき やっと、 マツ の ハ と いう もの が ミドリイロ で あった こと を おもいだした。 その ヒ は とある デンシンバシラ の ウエ に とりつけられた アーク-トウ で あった の で ある。 ちょうど その マシタ へ きた とき に、 ワタシ は しばらく たちどまって、 カゲ を くっきり と ジメン に うつして いる ジブン の スガタ を ながめまわした。 ホントウ に、 マツ の ハ の イロ を さえ わすれて いた くらい なの だ から、 もしも この ヘン で アーク-トウ に であわなかったら、 ワタシ は ジブン の スガタ まで も わすれて しまった かも しれない。 こうして ヒカリ の ナカ に はいって みる と、 イマ とおって きた マツバラ も、 これから ゆこう と する カイドウ も、 ワタシ の シュウイ 5~6 ケン ばかり の ケン の ウチ を のぞいて は、 すべて マックロ な ヤミ の セカイ で ある。 あんな くらい ところ を ジブン は よく とおって きた もの だ と おもわれる。 おそらく あの クラヤミ を あるいた オリ には ジブン は タマシイ ばかり に なって いた かも わからない。 そうして、 この アカルミ へ でる と ともに ニクタイ が タマシイ の ところ へ もどって きた の かも わからない。
その とき ワタシ は ふっと、 レイ の かさかさ と いう しわがれた モノ の オト が いまだに ミギテ の ヤミ の ナカ から きこえて いる の に こころづいた。 しろい ひらひら した もの が、 アーク-トウ の ヒカリ を うけて、 サッキ より は よけい まざまざ と アンチュウ に うごいて いる よう で ある。 その うごく の が うすぼんやり と した アカリ を おびて いる だけ に、 かえって いっそう きみわるく かんぜられる。 ワタシ は おもいきって、 マツナミキ の アイダ から くらい ほう へ クビ を だして、 その ひらひら した もの を じっと みつめた。 1 プン……… 2 フン……… しばらく ワタシ は そうして みつめて いた けれど、 やはり ショウタイ は わからなかった。 しろい もの が つい ワタシ の アシ の シタ から とおい ムコウ の マックラ な ほう に まで ムスウ の リン が もえる よう に ぱっと あらわれて は また きえて しまう。 ワタシ は あまり フシギ なので、 ぞっと ソウミ に ミズ を あびた よう に なりながら も、 なお しばらく は ギョウシ を つづけて いた。 そうして いる うち に しだいしだい に、 ちょうど わすれかかって いた もの が キオク に よみがえって くる よう な グアイ に、 あるいは また ほのぼの と ヨ が あけかかる よう な アンバイ に、 その フシギ な もの の ショウタイ が ふいっと わかって きた の で ある。 その マックラ な ぼうぼう たる ヘイチ は イチメン の フルヌマ で あって、 そこ に タクサン の ハス が うわって いた の で ある。 ハス は もう ハンブン かれかかって、 ハ は カミクズ か なんぞ の よう に ひからびて いる。 その ハ が カゼ の ふく たび に かさかさ と いう オト を たてて、 ハ の ウラ の しろい ところ を だしながら そよいで いる の で あった。
それにしても その フルヌマ は ヒジョウ に おおきな もの に ちがいない。 もう よほど マエ から ワタシ を おびやかして いる の で ある。 ぜんたい これ から サキ どこ まで つづいて いる の かしらん。 ―――そう おもって、 ワタシ は ヌマ の ムコウ の ユクテ の ほう を ながめやった。 ヌマ と ハス とは メ の とどく かぎり どこまでも どこまでも よこたわって いて、 はるか に どんより と くもった ソラ に つらなって いる。 まるで ボウフウウ の ヨル の オオウナバラ を みわたす よう で ある。 が、 その ナカ に たった イッテン、 オキ の イサリビ の よう に あかく ちいさく またたく もの が ある。
「あ、 あすこ に ヒ が みえる。 あすこ に ダレ か が すんで いる の だ。 あの ジンカ が みえだした から には、 もう じき マチ へ つく だろう」
ワタシ は なにがなし に うれしく なって、 アーク-トウ の ヒカリ の ナカ から くらい ほう へ と、 さらに ユウ を こして ミチ を いそいだ。
5~6 チョウ ばかり ゆく うち に、 ヒ は だんだん ちかく なって くる。 そこ には 1 ケン の カヤブキ の ヒャクショウヤ が あって、 その イエ の マド の ショウジ から ヒ が もれて くる らしい。 あすこ には ダレ が すんで いる の だろう。 コト に よる と、 あの わびしい ノナカ の イッケンヤ には、 ワタシ の オトウサン と オカアサン が いる の では ない かしら。 あすこ が ワタシ の イエ なの では ない かしら。 あの ヒ の ともって いる なつかしい マド の ショウジ を あける と、 トシ を とった オトウサン と オカアサン と が イロリ の ソバ で ソダ を たいて いて、
「おお ジュンイチ か、 よく まあ オツカイ に いって きて くれた。 さあ あがって ヒ の ソバ に おいで。 ホントウ に ヨミチ は さびしかったろう に、 カンシン な コ だねえ」
そう いって、 ワタシ を いたわって くださる の では ない かしら。
カイドウ の ヒトスジミチ は ヒャクショウヤ の アタリ で すこしく ヒダリ の ほう へ おれまがって いる らしく、 ミギガワ に ある その イエ の アカリ が、 ちょうど マツナミキ の ツキアタリ に みえて いる。 イエ の オモテ には 4 マイ ショウジ が しめきって あって、 ショウジ の ヨコ の カッテグチ には、 ナワノレン が さがって いる らしい。 ノレン を もれる ダイドコロ の ホカゲ が カイドウ の ジメン を ぼんやり と てらして、 ムコウガワ の タイボク の マツ の ネモト に まで かすか に とどいて いる。 ………もう その イエ の 1 ケン ばかり テマエ まで ワタシ は やって きた。 ノレン の カゲ の ナガシモト で ナニ か を あらって いる らしい ミズ の オト が きこえる。 ノキバ の コマド から は ほそい ケムリ が ほのぼの と たちのぼって、 カヤブキ の ノキサキ に ツバメ の ス の よう に もくもく と かたまって いる。 イマジブン ナニ を して いる の だろう。 こんな おそい ジコク に ユウゲ の シタク を して いる の だろう か。 そう おもった トタン に、 かぎなれた ミソシル の ニオイ が ぷーん と ワタシ の ハナ を おそって きた。 それから サカナ を やく らしい じくじく と アブラ の こげる うまそう な ニオイ が した。
「ああ オカアサン は だいすき な サンマ を やいて いる ん だな。 きっと そう に ちがいない」
ワタシ は キュウ に ハラ が へって きた。 はやく あすこ に いって、 オカアサン と イッショ に サンマ と ミソシル で ゴゼン を たべたい と おもった。
もう ワタシ は その イエ の マエ まで きた。 ナワノレン の ナカ を すかして みる と、 やっぱり ワタシ の おもった とおり、 オカアサン が ウシロムキ に なって テヌグイ を ネエサン カブリ に して ヘッツイ の ソバ に しゃがんで いる。 そうして ヒフキダケ を もって、 けむそう に メ を しばたたきながら、 しきり に ヘッツイ の シタ を ふいて いる。 そこ には 2~3 ボン の マキ が くべて あって、 ヒ が ヘビ の シタ の よう に もえあがる たび ごと に、 オカアサン の ヨコガオ が ほんのり と あかく てって みえる。 トウキョウ で なに フソク なく くらして いた ジブン には、 ついぞ ゴハン なぞ を たいた こと は なかった のに、 さだめし オカアサン は つらい こと だろう。 ………ぶくぶく と ワタ の はいった よごれた モメン の フタコ の ウエ に、 ぼろぼろ に なった アイミジン の チャンチャン を きて いる オカアサン の セナカ は、 イッショウ ケンメイ に ヒ を ふいて いる せい か、 セムシ の よう に まるく なって いる。 まあ いつのまに こんな イナカ の オバアサン に なって しまった ん だろう。
「オカアサン、 オカアサン、 ワタシ です よ、 ジュンイチ が かえって きた ん です よ」
ワタシ は こう いって カドグチ の ところ から コエ を かけた。 すると オカアサン は しずか に ヒフキダケ を おいて、 リョウテ を コシ の ウエ に くんで カラダ を かがめながら ゆっくり と たちあがった。
「オマエ は ダレ だった かね。 オマエ は ワタシ の セガレ だった かね」
ワタシ の ほう を ふりむいて そう いった コエ は、 あの フルヌマ の ハス の オト より も もっと しわがれて かすか で ある。
「ええ そう です、 ワタシ は オカアサン の セガレ です。 セガレ の ジュンイチ が かえって きた ん です」
が、 ハハ は じーっと ワタシ の スガタ を みつめた きり だまって いる。 ネエサン カブリ の シタ から みえる シラガマジリ の カミノケ には ヘッツイ の ハイ が つもって いる。 ホオ にも ヒタイ にも ふかい シワ が よって、 もう すっかり モウロク して しまった らしい。
「ワタシ は もう ながい アイダ、 10 ネン も 20 ネン も こうして セガレ の かえる の を まって いる ん だ が、 しかし オマエサン は ワタシ の セガレ では ない らしい。 ワタシ の セガレ は もっと おおきく なって いる はず だ。 そうして いまに この カイドウ の この イエ の マエ を とおる はず だ。 ワタシ は ジュンイチ なぞ と いう コ は もたない」
「ああ そう でした か。 アナタ は ヨソ の オバアサン でした か」
そう いわれて みれば なるほど その オバアサン は たしか に ワタシ の ハハ では ない。 たとい どんな に おちぶれた に して も、 ワタシ の オカアサマ は まだ こんな に トシ を とって は いない はず で ある。 ―――だが そう する と、 いったい ワタシ の オカアサマ の イエ は どこ に ある の だろう。
「ねえ オバアサン、 ワタシ は また ワタシ の オカアサン に アイタサ に、 こうして この カイドウ を サッキ から あるいて いる ん です が、 オバアサン は ワタシ の オカアサン の ウチ が どこ に ある か しらない でしょう か。 しって いる なら ゴショウ だ から おしえて ください」
「オマエサン の オフクロ の ウチ かい?」
そう いって、 オバアサン は メヤニ-だらけ な、 しょぼしょぼ と した メ を みはった。
「オマエサン の オフクロ の ウチ なんぞ を ワタシ が なんで しる もん かね」
「そんなら オバアサン、 ワタシ は ヨミチ を あるいて きて たいへん オナカ が へって いる ん です が、 ナニ か たべさして くれません か」
すると オバアサン は むっつり と した カオツキ で、 ワタシ の スガタ を アシ の サキ から アタマ の ウエ まで ずっと みあげた。
「まあ オマエサン は、 トシ も いかない くせ に、 なんと いう ずうずうしい コドモ だろう。 オマエ は オフクロ が いる なんて、 おおかた ウソ を いう の だろう。 そんな きたない ナリ を して、 オマエ は コジキ じゃ ない の かい?」
「いえいえ オバアサン、 そんな こと は ありません。 ワタシ には ちゃんと オトッツァン も あれば オッカサン も ある の です。 ワタシ の ウチ は ビンボウ です から、 きたない ナリ を して います けれど、 それでも コジキ じゃ ない ん です」
「コジキ で なければ ジブン の ウチ へ かえって オマンマ を たべる が いい。 ワタシ の ところ には なんにも たべる もの なんか ありゃ しない よ」
「だって オバアサン、 そこ に そんな に たべる もの が ある じゃ ありません か。 オバアサン は イマ ゴハン を たいて いた ん でしょう。 その オナベ の ナカ には オミオツケ も にえて いる し、 その アミ の ウエ には オサカナ も やけて いる じゃ ありません か」
「まあ オマエ は いや な コ だ。 ウチ の ダイドコロ の オナベ の ナカ に まで メ を つける なんて、 ホントウ に いや な コ だ。 この オマンマ や オサカナ や オミオツケ は ね、 オキノドク だ が オマエサン には やれない の だよ。 いまに セガレ が かえって きたらば、 きっと オマンマ を たべる だろう と おもって、 それで こしらえて いる の だよ。 かわいい かわいい セガレ の ため に こしらえた もの を、 どうして オマエ なんか に やれる もん か。 さあさあ、 こんな ところ に いない で はやく オモテ へ でて いって おくれ。 ワタシ は ヨウ が ある ん だよ。 オカマ の ゴハン が ふいて いる のに、 オマエ の おかげ で こげくさく なった じゃ ない か」
オバアサン は ツラ を ふくらせて こんな こと を いいながら、 そっけない ふう で ヘッツイ の ソバ へ もどって いった。
「オバアサン オバアサン、 そんな ムジヒ な こと を いわない で ください。 ワタシ は オナカ が へって たおれそう なん です」
そう いって みた けれど、 もう オバアサン は セナカ を むけた きり ヘンジ も せず に はたらいて いる。………
「シカタ が ない。 オナカ が へって も ガマン を する と しよう。 そうして はやく ウチ の オッカサン の ところ へ いこう」
ワタシ は ヒトリ で シアン を して ナワノレン の ソト へ でた。
そこ で ヒダリ へ まがって いる カイドウ の 5~6 チョウ サキ には、 ヒトツ の オカ が ある らしい。 ミチ は その オカ の フモト まで ほのじろく マッスグ に のびて いる けれど、 オカ に つきあたって それ から サキ は どう なる の だ か、 ここ から は よく わからない。 オカ には この カイドウ の マツナミキ と おなじ よう な マックロ な おおきな マツ の キ の ハヤシ が チョウジョウ まで こんもり と しげって いる よう で ある。 くらい ので はっきり は みえない が、 さあっさあっ と いう マツカゼ の オト が オカ ゼンタイ を ゆるがして いる ので、 それ と ソウゾウ が つく の で ある。 だんだん ちかづく に したがって、 ミチ は オカ の スソ を ぬって マツ の アイダ を ミギ の ほう へ ウカイ して いる。 ワタシ の シュウイ には コノシタヤミ が ひたひた と ひろがって、 アタリ は マエ より も いっそう クラサ が こく なって いる。 ワタシ を クビ を あげて ソラ を あおいだ。 が、 うっそう と した マツ の エダ に さえぎられて ソラ は すこしも みえない。 アタマ の ウエ では レイ の マツカゼ の オト が さっさつ と きこえて いる。 ワタシ は もう、 ハラ の へって いる こと も なにも わすれて、 ひたすら おそろしい ばかり で あった。 デンシンバシラ の ごうごう と いう ウナリ も ハスヌマ の かさかさ と いう オト も きこえなく なって、 ただ ウミ の トドロキ ばかり が いまだに ジヒビキ を させて なって いる。 なんだか アシ の シタ が バカ に やわらか に なって、 あるく たび ごと に ぼくり ぼくり と へこむ よう な ココチ が する。 きっと ミチ が スナジ に なった の で あろう。 そう だ と すれば べつに フシギ は ない わけ だ が、 しかし やっぱり キモチ が わるい。 いくら あるいて も ヒトツトコロ を ふんで いる よう で ある。 スナジ と いう もの が こんな に あるきにくい とは イマ まで かつて かんじなかった。 おまけに、 マエ とは ちがって わずか の アイダ に ミチ が ナンベン も ヒダリ へ まがったり ミギ へ おれたり する。 うっかり する と マツバヤシ へ まぎれこんで しまいそう で ある。 ワタシ は しだいに コウフン して きた。 ヒタイ には じいっと ヒヤアセ が にじみでて、 ムネ の ドウキ と イキヅカイ の ハゲシサ を ジブン の ミミ で メイリョウ に ききとる こと が できた。
うつむいて、 アシモト を みつめながら あるいて いた ワタシ は その とき ふと、 ホラアナ の よう な せまい ところ から ひろびろ した ところ へ でかかって いる よう な キ が した ので、 なにげなく カオ を もたげた。 まだ マツバヤシ は つきない けれど、 その ずっと ムコウ に、 トオメガネ を のぞいた とき の よう に、 まるい ちいさい あかるい もの が ある。 もっとも それ は トモシビ の よう な アカルサ では なく、 ギン が ひかって いる よう な するどい つめたい アカルサ で ある。
「ああ ツキ だ ツキ だ、 ウミ の オモテ に ツキ が でた の だ」
ワタシ は すぐと そう おもった。 ちょうど ショウメン の マツバヤシ が まばら に なって、 マド の ごとく スキマ を つくって いる ムコウ から、 その さえかえった ギンコウ が ぴかぴか と、 ネリギヌ の よう に かがやいて いる。 ワタシ の あるいて いる ミチ は いまだに くらい けれど、 カイジョウ の ソラ は クモ が やぶれて、 そこ から こうこう たる ツキ が さして いる の だろう。 みて いる うち に ウミ の カガヤキ は いよいよ まして きて、 この マツバヤシ の オク へ まで も まぶしい ほど に ハンシャ する。 なんだか こう、 きらきら と たえまなく ハンシャ しながら、 ミズ の ヒョウメン が ふっくら と ふくれあがって、 ほうはい と わきさわいで いる よう に かんぜられる。
ウミ の ほう から はれて くる ソラ は、 だんだん と この ヤマカゲ の ハヤシ の ウエ にも おしよせて、 ワタシ の あるく ミチ の ウエ も こくいっこく に あかるく なって くる。 シマイ には ワタシ ジシン の スガタ の ウエ にも、 あおじろい ツキ が マツ の ハカゲ を くっきり と そめだす よう に なる。 オカ の トッカク は しだいに ヒダリ の ほう へ とおのいて いって、 ワタシ は しらずしらず の アイダ に、 ほとんど フイ に ハヤシ の ナカ から びょうぼう たる ウミ の ゼンケイ の ホトリ に たたされて しまった。
ああ なんと いう ゼッケイ だろう。 ―――ワタシ は しばらく こうこつ と して そこ に たたずんで いた。 ワタシ の あるいて きた カイドウ は、 シラアワ の くだけて いる カイガン に そうて チョウテイ キョクホ の つづく かぎり つづいて いる。 ここ は ミホ ノ マツバラ か、 タゴノウラ か、 スミノエ ノ キシ か、 アカシ ノ ハマ か、 ―――とにも かくにも、 それら の メイショ の エハガキ で ミオボエ の ある エダブリ の おもしろい ソナレマツ が、 カイドウ の トコロドコロ に、 あざやか な カゲ を ナナメ に ジメン へ しるして いる。 カイドウ と ナミウチギワ との アイダ には、 ユキ の よう に マッシロ な スナジ が、 たぶん デコボコ に キフク して いる の で あろう けれど、 ツキ の ヒカリ が あんまり くまなく てって いる ため に、 その デコボコ が すこしも わからない で ただ ひらべったく なだらか に みえる。 その ムコウ は、 オオゾラ に かかった イチリン の メイゲツ と チヘイセン の ハテ まで テンカイ して いる ウミ との ホカ に、 イッテン の メ を さえぎる もの も ない。 センコク マツバヤシ の オク から みえた の は、 ちょうど その ツキ の マシタ に あたって、 もっとも つよく ひかって いる ブブン なの で ある。 その ウミ の ブブン は、 たんに ひかる ばかり で なく、 ひかりつつ ハリガネ を ねじる よう に うごいて いる の が わかる。 あるいは うごいて いる ため に、 いっそう ヒカリ が つよい の だ と いって も よい。 そこ が ウミ の チュウシン で あって、 そこ から シオ が うずまきあがる ため に、 ウミ が イチメン に ふくれだす の かも しれない。 なにしろ その ブブン を マンナカ に して、 ウミ が ナカダカ に もりあがって みえる の は ジジツ で ある。 もりあがった ところ から シホウ へ ひろがる に したがって、 ハンシャ の ヒカリ は ギョリン の ごとく こまごま と うちくだかれ、 サザレナミ の ウネリ の アイダ に ちらちら と まじりこみながら、 ミギワ の スナハマ まで しめやか に よせて くる。 どうか する と、 ミギワ で くずれて ひたひた と スナジ へ はいあがる ミズ の ナカ に まで も、 まじりこんで くる の で ある。
その とき カゼ は ぴったり と やんで、 あれほど ざわざわ と なって いた マツ の エダ も ヒビキ を たてない。 ナギサ に よせて くる ナミ まで が この ツキヨ の セイジャク を やぶって は ならない と つとめる か の ごとく、 かすか な、 エンリョガチ な、 ささやく よう な オト を きかせて いる ばかり で ある。 それ は たとえば オンナ の シノビナキ の よう な、 カニ が コウラ の スキマ から ぶつぶつ と ふく アワ の よう な、 きえいる よう に かすか では ある が、 めんめん と して つきる こと を しらない、 ながい かなしい コエ に きこえる。 その コエ は 「コエ」 と いう より も、 むしろ いっそう ふかい 「チンモク」 で あって、 コヨイ の この シズケサ を さらに シンピ に する ジョウチョテキ な オンガク で ある。………
ダレ でも こんな ツキ を みれば、 エイエン と いう こと を かんがえない モノ は ない。 ワタシ は コドモ で あった から、 エイエン と いう はっきり した カンネン は なかった けれども、 しかし なにかしら、 それ に ちかい カンジョウ が ムネ に みちみちて くる の を おぼえた。 ―――ワタシ は マエ にも こんな ケシキ を どこ か で みた キオク が ある。 しかも それ は イチド では なく、 ナンド も ナンド も みた の で ある。 あるいは、 ジブン が コノヨ に うまれる イゼン の こと だった かも しれない。 ゼンセ の キオク が、 イマ の ワタシ に よみがえって くる の かも しれない。 それとも また、 ジッサイ の セカイ で では なく、 ユメ の ナカ で みた の だろう か。 ユメ の ナカ で、 これ と そっくり の ケシキ を、 ワタシ は さいさん みた よう な ココチ が する。 そう だ、 たしか に ユメ に みた こと が ある の だ。 2~3 ネン マエ にも、 つい コノアイダ も みた こと が あった。 そうして ジッサイ の セカイ にも、 その ユメ と おなじ ケシキ が、 どこ か に ソンザイ して いる に ちがいない と おもって いた。 この ヨノナカ で、 いつか イチド は その ケシキ に であう こと が ある。 ユメ は ワタシ に それ を アンジ して いた の だ。 その アンジ が いまや ジジツ と なって ワタシ の メノマエ に あらわれて きた の だ。―――
ナミ さえ エンリョガチ に うちよせて いる の だ から、 ワタシ も なるべく なら しずか な アシドリ で、 ゆっくり と、 ぬすむ が ごとく あるいて ゆきたかった。 が、 どういう ワケ か ワタシ は ミョウ に コウフン して、 カイガンセン に そうた カイドウ を、 イソギアシ で にげる が ごとく ホ を はこんだ。 シュウイ の ブッショウ が あまり しーん と して いる ので、 なんだか おそろしかった の でも あろう。 うっかり して いる と、 ジブン も あの ソナレマツ や スナハマ の よう に、 じっと した きり こおった よう に なって、 うごけなく なる かも しれない。 そうして この カイガン の イシ と かして、 ナンネン も ナンネン も、 あの つめたい ゲッコウ を アタマ から あびて いなければ なるまい。 じっさい コンヤ の よう な ケシキ に あう と、 ダレ でも ちょいと しんで みたく なる。 この バ で しぬ ならば、 しぬ と いう こと が そんな に おそろしく は ない よう に なる。 ―――たぶん この カンガエ が、 ワタシ を コウフン させる の で あったろう。
「くまない ツキ の ヒカリ が アメツチ に てりわたって いる。 そうして その ツキ に てらされる ほど の モノ は、 ことごとく しんで いる。 ただ ワタシ だけ が いきて いる の だ。 ワタシ だけ が いきて うごいて いる の だ」
そういう キモチ が ワタシ を アト から おいたてる よう に した。 おいたてられれば おいたてられる ほど ワタシ は いよいよ せきこんで あるいた。 すると コンド は、 ワタシ ヒトリ が せきこんで いる と いう こと が、 それ が キョウフ の タネ に なった。 イキギレ が して くるしい ので、 ひょいと たちどまる と、 いや でも オウ でも アタリ の ケシキ が メ に はいって くる。 スベテ の もの は いぜん と して カンジャク に、 ソラ も ミズ も とおい ノヤマ も、 ひょうびょう たる ツキ の ヒカリ に とろけこんで、 その あおじろい シズカサ と いったら、 カツドウ シャシン の フイルム が チュウト で とまった よう で ある。 カイドウ の ジメン は、 さながら シモ が ふった ごとく マッシロ で、 その ウエ に あざやか な ソナレマツ の カゲ が、 ミチバタ から はいだした ヘビ の よう に よこたわって いる。 マツ と カゲ とは ネモト の ところ で ヒトツ に なって いる が、 マツ は きえて も カゲ は とうてい きえそう も ない ほど、 カゲ の ほう が はっきり して いる。 カゲ が シュ で、 マツ は ジュウ で ある か の よう に かんぜられる。 その カンケイ は ワタシ ジシン の カゲ に おいて も おなじ で あった。 じっと たたずんで ジブン の カゲ を ながく ながく みつめて いる と、 カゲ の ほう でも ジベタ に ねころんで じっと ワタシ を みあげて いる。 ワタシ の ホカ に うごく もの は この カゲ ばかり で ある。
「ワタシ は オマエ の ケライ では ない。 ワタシ は オマエ の トモダチ だ。 あんまり ツキ が いい もん だ から、 つい うかうか と ここ へ あそび に でて きた の だ。 オマエ も ヒトリ で さびしかろう から、 ミチヅレ に なって あげよう」
と、 カゲ は そんな こと を はなしかけて いる よう にも おもわれる。
ワタシ は さっき デンシンバシラ を かぞえた よう に、 コンド は マツ の カゲ を かぞえながら あるいて いった。 カイドウ と ナミウチギワ との キョリ は、 おりおり とおく なったり ちかく なったり する。 ある とき は ハマベ を ひたひた と シンショク する ナミ が、 もうすこし で マツ の ネカタ を ぬらしそう に おしよせて くる。 トオク を はって いる とき は うすい シロジュス を のべた よう に みえる が、 チカク に よせて くる とき は 1~2 スン の アツミ を もって、 ユ に とけた シャボン の ごとく に もりあがって いる。 ツキ は その 1~2 スン の モリアガリ に たいして さえ も、 ちゃんと ショウジキ に その ナミ の カゲ を スナジ へ うつして みせて いる。 じっさい こんな ツキヨ には、 1 ポン の ハリ だって カゲ を うつさず には いない だろう。
はるか な オキ の ほう から か、 それとも ユクテ の ナンボン も ナンボン も サキ の ソナレマツ の オク の ほう から か、 どっち だ か よく わからない が、 ふと、 ワタシ の ミミ に はいって きた フシギ な モノ の オト が あった。 あるいは ワタシ の ソラミミ で ある かも しれない けれど、 とにかく それ は シャミセン の ネ の よう で あった。 ふっと とだえて は また ふっと きこえて くる ネイロ の グアイ が、 どうも シャミセン に ちがいない。 ニホンバシ に いた ジブン、 バアヤ の フトコロ に だかれて フトン の ナカ に ねむりかけて いる と、 ワタシ は よく あの シャミセン の ネ を きいた。―――
「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい」
と、 バアヤ は いつも その シャミセン の フシ に あわせて くちずさんだ。
「ほら、 ね、 あの シャミセン の ネ を きいて いる と、 テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい、 と いって いる よう に きこえる でしょ、 ねえ、 きこえる で ございましょ」
そう いって バアヤ は、 カノジョ の ムネ に テ を あてて チクビ を いじくって いる ワタシ の カオ を のぞきこむ の が ツネ で あった。 キ の せい か しらぬ が、 なるほど バアヤ の いう よう に 「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい」 と かなしい フシ で うたって いる。 ワタシ と バアヤ とは、 ながい アイダ メ と メ を みあわせて、 なおも しずか に その シャミセン の ネ に ミミ を すまして いる。 ヒトドオリ の たえた、 さむい フユ の ヨ の こおった オウライ に、 からり、 ころり と ゲタ の ハ を ならしながら、 シンナイガタリ は ニンギョウ-チョウ の ほう から ワタシ の イエ の マエ を とおりすぎて、 コメヤマチ の ほう へ ながして ゆく。 シャミセン の ネ が しだいしだい に とおのいて かすか に きえて しまいそう に なる。 「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい」 と、 はっきり きこえて いた もの が、 だんだん うすく かすれて いって、 カゼ の グアイ で ときどき ちらり と きこえたり まったく きこえなく なったり する。………
「テンプラ……… テンプラ くいたい。 ………くいたい。 テンプラ……… テンプラ……… テン……… くい……… プラ くい………」
ハテ は こんな ふう に ぽつり ぽつり と ぼやけて しまう。 それでも ワタシ は、 トンネル の オク へ ちいさく ちいさく かくれて ゆく イッテン の ホカゲ を みつめる よう な ココロモチ で、 まだ イッシン に ミミ を すまして いる。 シャミセン の ネ が とぎれて も、 しばらく の アイダ は やっぱり 「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい」 と、 ささやく コエ が ワタシ の ミミ に こびりついて いる。
「おや、 まだ シャミセン が きこえて いる の かな。 ………それとも ジブン の ソラミミ かな」
ワタシ は ヒトリ そんな こと を かんがえながら、 いつ とは なし に すやすや と ネムリ の ソコ へ ひきこまれて ゆく。
その オボエ の ある シンナイ の シャミセン が、 コヨイ も あいかわらず 「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい」 と かなしい ネイロ を ひびかせつつ、 この カイドウ へ ちらほら と きこえて くる の で ある。 からり ころり と いう ゲタ の オト を ともなわない の が、 イツモ と ちがって いる けれど、 その ネイロ だけ は たしか に うたがう ヨチ が ない。 ハジメ の うち は 「テンプラ……… テンプラ………」 と、 「テンプラ」 の ブブン ばかり が メイリョウ で あった が、 すこし ずつ ちかづいて くる の で あろう、 やがて 「くいたい」 の ブブン の ほう も ただしく ききとれる よう に なった。 しかし、 チジョウ には ワタシ と マツ の カゲ より ホカ に、 シンナイガタリ らしい ヒトカゲ は どこ にも みえない。 ツキ の ヒカリ の とどく カギリ を、 ハテ から ハテ まで ずっと ながめわたして も、 ワタシ の ホカ に この カイドウ を ゆく モノ は コイヌ 1 ピキ いない の で ある。 コト に よったら、 ツキ の ヒカリ が あんまり あかるすぎる ので、 かえって モノ が みえない の では ない だろう か。 ―――ワタシ は そう おもったり した。
ワタシ が とうとう、 その シャミセン を ひく ヒトカゲ を 1~2 チョウ サキ に みとめた の は、 あれ から どの くらい すぎた ジブン だったろう。 そこ へ たどりつく まで の ながい アイダ、 ワタシ は どんな に ツキ の ヒカリ と ナミ の オト と に ひたされた だろう。 「ながい アイダ」 と いった だけ では、 じっさい その ナガサ の カンジ を いいあらわす こと は できない。 ヒト は よく ユメ の ナカ で、 2 ネン も 3 ネン も の ながい アイダ の ココロモチ を あじわう こと が ある。 ワタシ の その とき の カンジ は ちょうど それ に にて いた。 ソラ には ツキ が あって、 ミチ には ソナレマツ が あって、 ハマ には ナミ が くだけて いる カイドウ を、 2 ネン も 3 ネン も、 ひょっと したら 10 ネン も、 ワタシ は あるいて いった の かも しれない。 あるきながら、 ワタシ は もう コノヨ の ニンゲン では ない の か と おもった。 ニンゲン が しんで から ながい タビ に のぼる、 その タビ を ワタシ は イマ して いる の じゃ ない か とも おもった。 とにかく その くらい に ながい カンジ が した。
「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい」
いまや その シャミセン の ネ は まぢかく はっきり と きこえて いる。 さらさら と イサゴ を あらう ナミ の オト の バンソウ に つれて、 さえた バチ の サバキ が イズミ の ケンテキ の よう に、 ギン の スズ の よう に、 こうごうしく ワタシ の ムネ に しみいる の で ある。 シャミセン を ひいて いる ヒト は、 ウタガイ も なく うらわかい オンナ で ある。 ムカシ の トリオイ が かぶって いる よう な アミガサ を かぶって、 すこし うつむいて あるいて いる その オンナ の エリアシ が ツキアカリ の せい も あろう けれど、 おどろく ほど マッシロ で ある。 わかい オンナ で なければ あんな に しろい はず が ない。 ときどき ミギ の タモト の サキ から こぼれて でる、 テンジン を にぎって いる テクビ も おなじ よう に しろい。 まだ ワタシ とは 1 チョウ イジョウ も はなれて いる ので、 きて いる キモノ の シマガラ など は わからない のに、 その エリアシ と テクビ の シロサ だけ が、 オキ の ナミガシラ が ひかる よう に きわだって いる。
「あ、 わかった。 あれ は コト に よる と ニンゲン では ない。 きっと キツネ だ。 キツネ が ばけて いる の だ」
ワタシ は にわか に オクビョウカゼ に さそわれて、 なるべく アシオト を たてない よう に おそるおそる その ヒトカゲ に ついて いった。 ヒトカゲ は あいかわらず シャミセン を ひきながら、 ふりむき も せず に とぼとぼ と あるいて いる。 が、 それ が もしも キツネ だ と すれば、 ワタシ が ウシロ から あるいて ゆく の を よもや しらない はず は なかろう。 しって いる くせ に わざと そらとぼけて いる の だろう。 そう いえば なんだか、 あの マッシロ な ハダ の イロ が、 どうも ニンゲン の ヒフ では なくて、 キツネ の ケ の よう に おもわれる。 ケ で ない もの が、 あんな に しろく つやつや と ネコヤナギ の よう に ひかる わけ が ない。
ワタシ が ゆっくり と あるいて ゆく にも かかわらず、 オンナ の ウシロスガタ は しだいしだい に ちかづいて くる。 フタリ の キョリ は すでに 5 ケン とは へだたって いない。 もうすこし で ジメン に うつって いる ワタシ の カゲ が カノジョ の カカト に おいつきそう で ある。 ワタシ が 1 シャク も あるく アイダ に カゲ は ぐいぐい と 2 シャク も のびる。 カゲ の アタマ と オンナ の カカト とは みるみる うち に スレスレ に なる。 オンナ の カカト は、 ―――この さむい のに オンナ は スアシ で アサウラ ゾウリ を はいて いる。――― これ も エリアシ や テクビ と おなじ よう に マッシロ で ある。 それ が トオク から みえなかった の は、 おおかた ながい キモノ の スソ に かくされて いた ため で あろう。
なにしろ おそろしく ながい スソ で ある。 それ は オメシ とか チリメン とか いう もの でも あろう か、 シバイ に でて くる イロオンナ や イロオトコ の きて いる よう な ぞろり と した スソ が、 アシ の コウ を つつんで、 ともすると スナジ へ べったり と ひきずる ほど に たれさがって いる。 けれども、 スナジ が きれい で ある せい か アシ にも スソ にも ヨゴレメ は まるで ついて いない。 ぱたり、 ぱたり と、 ゾウリ を あげて あるく たび ごと に、 なめて も いい と おもわれる ほど マッシロ な アシ の ウラ が みえる。 キツネ だ か ニンゲン だ か まだ ショウタイ は わからない が、 ハダ は まごう べく も ない ニンゲン の ヒフ で ある。 ツキ の ヒカリ が アミガサ を すべりおちて さむそう に てらして いる エリアシ から、 マエカガミ に かがんで いる セスジ の ほう へ かけて、 きゃしゃ な セボネ の リュウキ して いる の まで が ありあり と わかる。 セスジ の リョウガワ には ほそぼそ と した ナデガタ が、 チ へ ひく キヌ と ともに すんなり と して いる。 サユウ へ ひらいた アミガサ の ヒサシ より も せまい くらい に、 その カタハバ は ほそい の で ある。 おりおり ぐっと うつむく とき に、 びっしょり ミズ に ぬれた よう な うつくしい タボ の ケ と、 その ケ を おさえて いる カサ の オ の アイダ から、 ミミタブ の ニク の ウラガワ が みえる。 しかし、 みえる の は その ミミタブ まで で、 それ から サキ には どんな カオ が ある の だ か、 カサ の オ が ジャマ に なって まるっきり わからない。 なよなよ と した、 カゼ にも たえぬ ウシロスガタ を、 みつめれば みつめる ほど、 ますます ニンゲンバナレ が して いる よう に かんぜられて、 やっぱり キツネ の ばけて いる の では ない か と あやしまれる。 いかにも やさしい、 かよわい ビジョ の ウシロスガタ を みせて おいて、 ソバ へ ちかよる と、 「わっ」 と いって ハンニャ の よう な ものすごい カオ を こちら へ むける の じゃ ない かしらん。………
もう ワタシ の アシオト は、 あきらか に カノジョ の ミミ に きこえて いる に ちがいない。 ワタシ が ウシロ に いる と しったら、 イッペン ぐらい ふりむいて も よさそう な もの だ のに、 しらん カオ を して いる ところ を みる と いよいよ あやしい。 おどかされて も いい つもり で ヨウジン して ゆかない と、 どんな メ に あう か わからない。 ………チ に のびて ゆく ワタシ の カゲ は もう カノジョ の カカト に おいついて、 キモノ の スソ を 1 シャク 2 シャク と はいあがって いる。 ちょうど カノジョ の コシ の アタリ に うつって いる ワタシ の クビ が、 だんだん と オビ の ほう へ うつって いって、 いまや セスジ を つたわろう と して いる。 ワタシ の カゲ の ムコウ には、 オンナ の カゲ が たおれて いる。 ワタシ は おもいきって ちょいと ヨコミチ へ それて みた。 すると ワタシ の カゲ は たちまち オンナ の コシ を はなれて、 カノジョ の カゲ と カタ を ならべつつ マエ の ジメン に くっきり と いんせられた。 もはや なんと いって も、 それ が オンナ に みえない と いう はず は ない。 が、 いぜん と して オンナ は こちら を ふりむき も しない。 ただ イッショウ ケンメイ に、 とはいえ きわめて しとやか に、 おちつきはらって シンナイ の ナガシ を ひいて いる。
カゲ と カゲ とは いつのまにやら イッスン の デイリ も なく ならびあった。 ワタシ は はじめて、 ちらり と オンナ の ヨコガオ を のぞきこんだ。 カサ の オ の ムコウ に やっと カノジョ の ふっくら と した ホオ の セン の モチアガリ が みえた。 ホオ の セン だけ は たしか に ハンニャ の ソウ では ない。 ハンニャ の ホッペタ が あんな に ふくらんで いる わけ は ない。
ふくらんだ ホッペタ の カゲ から、 すこし ずつ、 じつに すこし ずつ、 ハナ の アタマ の トガリ が みえて くる。 ちょうど キシャ の マド で ケシキ を ながめて いる とき に、 とある ヤマ の ヨコハラ から ミサキ が すこし ずつ あらわれて くる よう な グアイ で ある。 ワタシ は その ハナ が、 たかい、 リッパ な、 ジョウヒン な ハナ で あって くれれば いい と おもった。 こんな ツキヨ に こんな フウリュウ な スガタ を して あるいて いる オンナ を、 みにくい オンナ だ とは おもいたく なかった。 そう おもって いる うち に、 ハナ の アタマ は だんだん ヨケイ に ホオ の ムコウ から スガタ を あらわして くる。 とがった ブブン の シタ に つづく コバナ の セン の なだらか なの が うかがわれる。 もう それ だけ でも、 ハナ の カタチ の ダイタイ は ソウゾウ する こと が できる。 たしか に それ は たかい ハナ に ちがいない。 たかい、 しかも リッパ な ハナ に ちがいない。 もう だいじょうぶ だ。………
ワタシ は ホントウ に うれしかった。 ことに その ハナ が、 ワタシ の ソウゾウ した より も はるか に みごと な、 エ に かいた よう に カンゼン な ウツクシサ を もって いる こと が あきらか に なった とき、 ワタシ の ウレシサ は どんな で あったろう。 いまや カノジョ の ヨコガオ は、 その タンゲン な ビリョウ の セン を ハジメ と して、 つつむ ところ なく あらわれいでつつ、 ワタシ の カオ と ぴったり ならんで いる の で ある。 それでも オンナ は、 やっぱり ワタシ の ほう を ふりむかない。 ヨコガオ イジョウ の もの を ワタシ に みせよう と しない。 ハナ の セン を サカイ に した ムコウガワ の ハンメン は、 ヤマカゲ に さく ハナ の よう に かくれて いる の で ある。 オンナ の カオ は エ の よう に うつくしい と ともに、 「エ の よう に」 オモテ ばかり で ウラ が ない か の ごとく かんぜられる。
「オバサン、 オバサン、 オバサン は どこ まで あるいて いく の です か」
ワタシ は こう いって オンナ に たずねた が、 その おずおず した コエ は、 さえた バチオト に かきけされて カノジョ の ミミ へは はいらなかった。
「オバサン、 オバサン、………」
ワタシ は もう イッペン よんで みた。 「オバサン」 と いう より は、 ワタシ は じつは 「ネエサン」 と よんで みたかった。 アネ と いう もの を もたない ワタシ は、 うつくしい アネ を もちたい と いう カンジョウ が、 しじゅう ココロ の ナカ に あった。 うつくしい アネ を もって いる トモダチ の キョウグウ が、 ワタシ には つねに うらやましかった。 で、 この オンナ を よびかける とき の ワタシ の ムネ には、 アネ に たいする よう な あまい なつかしい キモチ が わきあがって いた。 「オバサン」 と よぶ の は なんだか いや で あった。 けれど、 いきなり 「アネ」 と よんで は あまり なれなれしい よう に おもわれた ので、 よんどころなく 「オバサン」 に して しまった の で ある。
2 ド-メ には おおきな コエ を だした つもり で あった が、 オンナ は それでも ヘンジ を しない。 ヨコガオ を うごかさない。 ひたすら シンナイ の ナガシ を ひいて、 さらり、 さらり、 と ながい キモノ の スソ を イサゴ に しきながら うつむいて マッスグ に あるいて ゆく。 オンナ の メ は ひとえに シャミセン の イト の ウエ に おちて いる よう で ある。 おそらく カノジョ は、 ジブン の かなでて いる オンガク を、 イッシン に ききほれて いる の でも あろう。
ワタシ は イッポ マエ に ふみだして、 ヨコガオ だけ しか みえなかった オンナ の カオ を、 コンド は ショウメン から マトモ に のぞきこんだ。 カオ は くらい アミガサ の カゲ に なって いる の だ けれど、 それ だけ に いっそう イロ の シロサ が きわだって かんぜられる。 カゲ は カノジョ の シタクチビル の アタリ まで を おおって いて、 カサ の オ の くいいって いる アゴ の サキ だけ が、 わずか に ちょんびり と ツキ の ヒカリ に さらされて いる。 その アゴ は ハナビラ の よう に ちいさく あいらしい。 そうして、 クチビル には ベニ が こってり と さされて いる。 その とき まで ワタシ は キ が つかなかった が、 オンナ は たしか に アツゲショウ を して いる の で ある。 あんまり イロ が しろすぎる と おもった の も ドウリ、 カオ にも エリ にも こい オシロイ が くっきり と どくどくしい まで に ぬられて いる。 ―――けれど、 その ため に カノジョ の ビボウ が すこし でも ワリビキ される と いう の では ない。 どぎつい デントウ の アカリ や タイヨウ の コウセン の モト で こそ、 オシロイ の こい の は いやしく みえる こと も あろう が、 コンヤ の よう な あおじろい ゲッコウ の モト に、 あくまで ヨウエン な ビジョ の アツゲショウ を した カオ は、 かえって シンピ な、 マモノ の よう な モノスゴサ を おぼえさせず には おかない の で あった。 まことに その オシロイ は、 うつくしい と いう より も、 もしくは はなやか と いう より も、 さむい と いう カンジ の ほう が いっそう つよかった の で ある。
どうした の か、 オンナ は ふと たちどまって、 うつむいて いた カオ を もたげて、 オオゾラ の ツキ を あおいだ。 くらい カサ の カゲ の ナカ で ほのじろく におって いた ホオ は、 その とき キュウ に あの オキアイ の ウミ の シオ の ごとく ギンコウ を はなつ か と うたがわれた。 すると、 その こうこう たる ホオ の ウエ から きらり きらり と ひらめきながら、 ハス の ハ を こぼれる ツユ の タマ の よう に ころがりおちる もの が あった。 きらり と かがやいて どこ か へ きえて しまった か と おもう と、 また きらり と かがやいて は きえる。
「オバサン、 オバサン、 オバサン は ないて いる ん です ね。 オバサン の ホッペタ に ひかって いる の は ナミダ では ありません か」
ワタシ が こう いう と、 オンナ は なおも オオゾラ を みあげながら こたえた。
「ナミダ には ちがいない けれど、 ワタシ が ないて いる の では ない」
「そんなら ダレ が ないて いる の です か。 その ナミダ は ダレ の ナミダ なの です か」
「これ は ツキ の ナミダ だよ。 オツキサマ が ないて いて、 その ナミダ が ワタシ の ホオ の ウエ に おちる の だよ。 あれ ごらん、 あの とおり オツキサマ は ないて いらっしゃる」
そう いわれて、 ワタシ も おなじ よう に オオゾラ の ツキ を あおいだ。 しかし、 はたして オツキサマ が ないて いる の か どう か よく は わからなかった。 ワタシ は たぶん、 ジブン は コドモ で ある から それ が わからない の で あろう と おもった。 それにしても、 ツキ の ナミダ が オンナ の ホオ の ウエ に ばかり おちて きて、 ワタシ の ホオ に ふりかからない の は なぜ で あろう。
「あ、 やっぱり オバサン が ないて いる ん だ。 オバサン は ウソ を いった の だ」
ワタシ は とつぜん、 そう いわず には いられなかった。 なぜか と いう の に、 オンナ は クビ を もたげた まま、 その ナキガオ を ワタシ に さとられない よう に して、 しきり に しくしく と しゃくりあげて いた の で ある。
「いいえ、 いいえ、 なんで ワタシ が ないて いる もの か。 ワタシ は どんな に かなしくって も なき は しない」
そう いいながら も、 オンナ は あきらか に さめざめ と ないて いる の で ある。 ウナジ を あげて いる カオ の、 マブタ の カゲ から わきでる ナミダ が、 ハナ の リョウガワ を つたわって アゴ の ほう へ イト を ひきながら ながれて いる。 コエ を ころして しゃくりあげる たび ごと に、 ノド の ホネ が ヒフ の シタ から いたいたしく あらわれて、 イキ が つまり は しない か と おもわれる ほど せつなげ に びくびく と へこんで いる。 ハジメ は ツユ の タマ の ごとく てきてき と こぼれて いた もの が、 みる うち に ホオ イチメン を ミズ の よう に ぬらして、 ハナ の アナ へも クチ の ナカ へも ヨウシャ なく シンニュウ して ゆく らしい。 と、 オンナ は ミズバナ を すする と イッショ に クチビル から しみいる ナミダ を ぐっと のみこんだ らしかった が、 ドウジ に はげしく ごほん ごほん と セキ に むせんだ。
「それ ごらんなさい。 オバサン は その とおり ないて いる じゃ ありません か。 ねえ オバサン、 ナニ が そんな に かなしくって ないて いる ん です」
ワタシ は そう いって、 ミ を かがめて せきいって いる オンナ の カタ を さすって やった。
「オマエ は ナニ が かなしい と オイイ なの かい? こんな ツキヨ に こうして ソト を あるいて おれば、 ダレ でも かなしく なる じゃ ない か。 オマエ だって ココロ の ナカ では きっと かなしい に ちがいない」
「それ は そう です。 ワタシ も コンヤ は かなしくって シヨウ が ない の です。 ホントウ に どういう ワケ でしょう」
「だから あの ツキ を ごらん と いう のさ。 かなしい の は ツキ の せい なの さ。 ―――オマエ も そんな に かなしい の なら、 ワタシ と イッショ に ないて おくれ。 ね、 ゴショウ だ から ないて おくれ」
オンナ の コトバ は あの シンナイ の ナガシ にも おとらない、 うつくしい オンガク の よう に きこえた。 フシギ な こと には、 こんな グアイ に かたりつづけて いる アイダ にも、 オンナ は シャミセン の テ を やすめず ひいて いる の で ある。
「それじゃ オバサン も ナキガオ を かくさない で、 ワタシ の ほう を むいて ください。 ワタシ は オバサン の カオ が みたい の です」
「ああ そう だった ね、 ナキガオ を かくした の は ホント に ワタシ が わるかった ね。 いい コ だ から カンニン して おくれ よ」
ソラ を あおいで いた オンナ は、 その とき さっと アタマ を ふりむけて、 アミガサ を かたむけながら ワタシ の ほう を のぞきこんだ。
「さあ、 ワタシ の カオ を みたければ とっくり と みる が いい。 ワタシ は この とおり ないて いる の だよ。 ワタシ の ホッペタ は こんな に ナミダ で ぬれて いる の だよ。 さあ オマエ も ワタシ と イッショ に ないて おくれ。 コンヤ の ツキ が てって いる アイダ は、 どこ まで でも イッショ に なきながら この カイドウ を あるいて いこう」
オンナ は ワタシ に ホオ を すりよせて さらに さめざめ と ナミダ に かきくれた。 かなしい には ちがいなかろう けれど、 そうして ないて いる こと が、 いかにも いい ココロモチ そう で あった。 その ココロモチ は ワタシ にも はっきり と かんぜられた。
「ええ、 なきましょう、 なきましょう。 オバサン と イッショ に なら いくらだって なきましょう。 ワタシ だって サッキ から なきたい の を ガマン して いた ん です」
こう いった ワタシ の コエ も、 なんだか ウタ の シラベ の よう に うつくしい センリツ を おびて きこえた。 この コトバ と ともに、 ワタシ は ワタシ の ホオ を ながれる ナミダ を かんじた。 ワタシ の メノタマ の マワリ は いちどきに あつく なった よう で あった。
「おお、 よく ないて おくれ だねえ。 オマエ が ないて おくれ だ と、 ワタシ は いっそう かなしく なる。 かなしくって かなしくって たまらなく なる。 だけど ワタシ は かなしい の が すき なん だ から、 いっそ なける だけ なかして おくれ よ」
そう いって、 オンナ は また ワタシ に ホオズリ を した。 いくら ナミダ が ながれて も、 オンナ の カオ の オシロイ は はげよう とも しなかった。 ぬれた ホッペタ は かえって ツキ の オモテ の よう に つやつや と ひかって いた。
「オバサン、 オバサン、 ワタシ は オバサン の いう とおり に して、 イッショ に ないて いる ん です。 だから そのかわり オバサン の こと を ネエサン と よばして くれません か。 ねえ、 オバサン、 これから オバサン の こと を ネエサン と いったって いい でしょう」
「なぜ だい? なぜ オマエ は そんな こと を いう の だい?」
その とき オンナ は、 ススキ の ホ の よう に ほそい メ を しみじみ と ワタシ の カオ に そそいで いった。
「だって ワタシ には ネエサン の よう な キ が して ならない ん です もの。 きっと オバサン は ワタシ の ネエサン に ちがいない。 ねえ、 そう でしょう? そう で なくって も、 これから ワタシ の ネエサン に なって くれて も いい でしょう」
「オマエ には ネエサン が ある わけ は ない じゃ ない か。 オマエ には オトウト と イモウト が ある だけ じゃ ない か。 ―――オマエ に オバサン だの ネエサン だの と いわれる と、 ワタシ は なおさら かなしく なる よ」
「それじゃ なんと いったら いい ん です」
「なんと いう って、 オマエ は ワタシ を わすれた の かい? ワタシ は オマエ の オッカサン じゃ ない か」
こう いいながら、 オンナ は カオ を できる だけ ワタシ の カオ に ちかづけた。 その シュンカン に ワタシ は はっと おもった。 いわれて みれば なるほど ハハ に ちがいない。 ハハ が こんな に わかく うつくしい はず は ない の だ が、 それでも たしか に ハハ に ちがいない。 どういう ワケ か ワタシ は それ を うたがう こと が できなかった。 ワタシ は まだ ちいさな コドモ だ。 だから ハハ が この くらい わかくて うつくしい の は アタリマエ かも しれない、 と おもった。
「ああ オカアサン、 オカアサン でした か。 ワタシ は サッキ から オカアサン を さがして いた ん です」
「おお ジュンイチ や、 やっと オッカサン が わかった かい。 わかって くれた かい。―――」
ハハ は ヨロコビ に ふるえる コエ で こう いった。 そうして ワタシ を しっかり と だきしめた まま たちすくんだ。 ワタシ も イッショウ ケンメイ に だきついて はなれなかった。 ハハ の フトコロ には あまい チブサ の ニオイ が あたたかく こもって いた。………
が、 いぜん と して ツキ の ヒカリ と ナミ の オト と が ミ に しみわたる。 シンナイ の ナガシ が きこえる。 フタリ の ホオ には いまだに ナミダ が トメド なく ながれて いる。
ワタシ は ふと メ を さました。 ユメ の ナカ で ホントウ に ないて いた と みえて、 ワタシ の マクラ には ナミダ が しめって いた。 ジブン は コトシ 34 サイ に なる。 そうして ハハ は イッサクネン の ナツ イライ コノヨ の ヒト では なくなって いる。 ―――この カンガエ が うかんだ とき、 さらに あたらしい ナミダ が ぽたり と マクラ の ウエ に おちた。
「テンプラ くいたい、 テンプラ くいたい。………」
あの シャミセン の ネ が、 まだ ワタシ の ミミ の ソコ に、 アノヨ から の オトズレ の ごとく とおく はるけく ひびいて いた。